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2006/02/09(木)
父の命日に思う
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2月9日、昨年のこの日父は西方へ旅立った。享年72才。
静かで、真面目で、頑固だった。
亡くなる半日前ぐらいに付き添っていた私に、父は息絶え絶えに言った。 「もう、十分だ… 機械はずせ…」と。 望みを叶えてあげたかったけど、現代医療の悔しい事。 病院から返ってきた言葉は「機械をはずすと言う事は、退院されるという事ですか?」・・目が点になった。今命が尽きようとしている人間に退院というのだ。 だから、せめて聞いてあげたかった。命の灯火を覚悟した父に。 「葬式、どんな風にやりたい?何宗でやりたい?」・・ あえぎの息の中から、父はハッキリと答えてくれた。 人が聞いたらさぞかし驚く事であろう。 でも、娘だから分かってあげられる父の気持ち。 きっと穏やかになってくれたと思う… その後はもう会話できなかったね。
父は昔気質の靴職人だった。 朝は5時から仕事。夜は10時過ぎまで仕事。 休みはそれこそ盆、暮れ、正月だけだった。 でも、家で仕事をしていたので帰ると必ず仕事場へ行っていた私。 父の仕事を見ているのが好きだった。 何十本もの釘を口にくわえ、手早に金槌で打ち付けていく。 真似しては怒られたっけ… 節くれ立った、血管の浮き上がった父の手も好きだった。 亡くなる時、握った父の手が若い頃と変わらなかったのが嬉しかった…姿は痩せて半分になっちゃったのに、手は変わっていなかったね…
夏みかんの実は食べやすいように出してくれた… 甘栗は渋皮も取って食べるだけに… 魚は骨をのぞいてくれた… 一緒に遊んだり、学校に来てくれた事は一度もなかったけど、いつでも愛されていると実感していた。 家の家電修理は全部父がした。 それを見ていたおかげで、私も家電の修理はお手の物だ。 ふすまや障子張り、ペンキ塗りも父の仕事を見ていたおかげで私も得意。 特に楽しげな会話もしなかったが、いつでも父の仕事を見ていた…
そんな父も、孫ができてからはうってかわったように遊園地、デパートなどに出かけたっけ…
60才の時脳梗塞で倒れてから、思うように仕事ができなくて悔しかったであろう。肝心要の手に障害が残ったのだ。 リハビリのため散歩など薦めても、 「用もないのに外なぞ歩いていられない!」 と頑固にリハビリはしなかったね。私は匙を投げてしまった。
亡くなり家に連れて帰ってきてから、父の顔はだんだん仏の顔に変わっていった。 安らかに旅立ったのだろうと思うと悲しくはなかった。 葬儀中も涙の一つもこぼさない私に、参列して下さった方は「無理しないで」と声をかけて下さったが、本当に悲しくはなかったのだ。 父が人生に満足して逝ってくれたと思うと安らぎの安堵の方が大きい。
人は誰もがいつか空へ旅立つ。 私もその時が来たら、人生に満足してこの世への想いを浄化して旅立てるよう、今を生きていきたいと思う。
最後の最後まで父に教えられた…
ps:母に捨てられたNSPのアルバム。それでも残った数枚は父が「美果子がいるかもしれないから、とっておけ」と言ってくれたらしい。おかげで今手元にしっかりとある。
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