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2020/05/30(土)
ゲッセマネというのか
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新約聖書で凄く好きな場面、イエス様が「父よ、この盃(十字架の運命)を取り去って下さい」と嘆く箇所。 「ゲッセマネの祈り」というらしい。それと「我が神、我が神、どうして私を見捨てられたのですか」も好き。 イエス様が凄いところは、そう心から嘆きつつ、それでも神の御心のままにして下さいと言える所だ。 自分は嫌なんだよね。きっとこの人生で自分に与えられた職分はうっすらずっとわかってはいて、 それが嫌だから創作に逃げて、逃げるだけで何も実にならずどうにもならなくなってウンザリしてる。
誰も私が創作してたって喜ばないことくらい、とっくにわかってんですよ。それより己の本分に励めと。 そもそも最初は自分で選んだはずだろ? 何で嫌になったの? 創作諦めたよね、社会人になった頃は。 きちんと生きてたらそれなりの報いはあったろうさ。怠惰に堕ちたからツケを払ってるだけの今じゃん。 受け入れるだけ。ただそれだけ。当たり前の人間がやることをやるだけ。何故それがこんなにも嫌。 何も全人類の罪を背負えと言われてるわけじゃないのに……自分の十字架がどうしても受け入れられん。
そんな罪人でも神様は愛すると言うが、努力した先にいる人間達が「こっちの方が幸せだよ!」と、 善意でおいでおいでをするように、神様も結局、立ち直るために頑張る者をより愛するでしょうに。 立ち直りたくないんです。絶望の淵にいたい。この盃を飲んで望まぬ人生を受け入れるくらいなら。 つくづく、生まれない方が良かった人間ね。ヨブはそうでなかったけどこっちは本当にそうだっつー。 キラキラした人達の下にはシカバネが必要だよね。そう思うのが一番妥当な気がする。ごみはゴミ箱に。 ごみにはごみの意義がある。そう言ってくしかない人生だろう。それが自分の十字架なら面白いけど。笑。
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