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2014/05/19(月)
苦しみ
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良い、死の話を読みました。 とても、美しくて苛烈で、しかし穏やかだった。
満足な死、というテーマ。 それを一時も手放せません。 私の肌に触れていない時も、空気以外の何をも挟まない場所に常に浮かんでいる。
私は死にたいのかと、よく自問します。 それは不可思議な意識です。 だって、死にたくないというプログラムのはずなのです。 それが本能。 でも、それなのに死を免れることは出来ない。 だったら、受け入れた方が楽なのに。 なのに、死は何時なのか分からないから。 だから、いつまでも覚悟が出来ない。
覚悟、というと違うかもしれない。 死に満足するということ。 それは一つの問題でもあります。 何故なら、死には魅力もあるからです。 そこに完成がある。 絶対がある。 死に満足してしまえば、すぐさまそれに手を出してしまう。
諦めなければいけない死を前にして満足出来れば、それでいい。 でも、私はいつどうやって死ぬのか、知ることが出来ない。 次の瞬間死ぬかもしれない。 それでは準備が間に合わない。 老齢になって何もわからなくなってから死ぬかもしれない。 それでは準備が無駄になる。
私は何歳まで、ちゃんと準備して、満足して、死ぬことが出来るのか知りたい。 その限界まで、生きて、準備して、そして、満足して死にたい。 とても、とても、とても。
そればっかりずっと考えているのです。 初めにこの考えを持ってから、迷いながら、でも結局は戻ってきて、そしてずっと。 ずっと、この考えのまま、 死にたくない、しかし死にたい。 死に満足し、自らで選びたい。
今の生に幸福を感じています。 それを終わらせるのは苦しいことです。 ずっと楽しみたいのだから。 けれど、体も人格も劣化し風化し崩れ去る。 それまでの一瞬を楽しんだら、満ちた幸福を失い空っぽで死ぬ前に、自分の幸福を完全に完成させてしまいたい。 そうやって死にたい。 死にたい死にたい。
これはもう病気です。 精神ではなく、心理ではなく、私の魂の病気です。 私の存在が、生きるという証明と同じぐらいに死という完成を欲している。
この苦しみが自分の本質だと、私は理解しています。 だから苦しむ。 きっとこのままずっと、かなりの時間を。 そして耐えられなくなってどこかへ仕舞いこみ、忘れたふりをして。 そうして結局、この記憶の中の幸福を失いながら死んでいく。
嫌だなと、思います。 幸せだなと、思います。 他の生き方と死に方を選ばせてもらえても、やっぱりこれを選んでしまうぐらいに。
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