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2011/05/28(土)
宗教と言葉
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こんなこと書くととても嫌われそうな気がするのですが。 多分同じことを思ってる人は多いけど、皆大人だからネットで書いたりしないのです。 私は頭がいつまでも思春期な子供なので書いてしまいますが。
よく見かける言葉ですが。 「生まれてきた意味」とか「命の価値」とか苦手なのです。 嫌いというわけでなく、否定するわけでなく。 携帯が初めに登場した時の、新しい便利さを苦手に思う気持ちと似ている気がします。
現在はアンチ一神教な私ですが、キリスト教教育の元に育っています。 命の価値は平等だとか、神様の愛に区別は無いとか、そう聞く機会は多かった。 でも、それ嫌いなんです。 人間至上主義なところが。 神様がもし平等だったら、こんなに人間が増えるはずがない。 平等という言葉の意味までは今書きませんが。
価値は個人で勝手に決めるものでしかないと思ってるのです。 「社会的に価値がある」という言葉もありますが、社会的な価値にどれだけ価値を見出すかは個人ですし。
生まれてきた意味がほしい気持ちは分かります。 自分に価値があったら嬉しいと思います。 でも、もし自分に生まれてきた意味があるなら、今日私が食べた肉牛が生まれてきたのにも意味がある。 それは勿論「私に食べられる」という意味かもしれません。 でも、それなら私自身の生まれてきた意味も、誰かに殺されて食べられるようなものでしょう。 私が食べるのはどの肉牛であっても同じだった様に、私も一群のうちのどれかでしかないでしょう。 そういう意味で、価値が欲しいだろうか?と思ってしまう。 人間て贅沢だから、そういう意味や価値を与えられても納得出来ないんじゃないだろうかと思ってしまう。 けれど納得出来るか出来ないかで言えば、牛だって家畜の扱いには納得していないかもしれない。 ヒトだけが特別だというのはそもそも、自分達が作った価値観。 だったら個人の価値は、個人で勝手に作ればいい。
何を言っても、所詮は恵まれた立場からの言葉ですが。 そこの辺を歩いている蟻や、草むしりで千切った雑草と同じだけの重みで満足すべきなのが、自分の生命としての価値だと思う。 それを幸せに思うのを簡単にしてくれるのが、宗教の役目じゃないかと。
色々言っても、まとめは適当なんですが。 価値や意味が欲しい人は、価値や意味を持たせてくれる誰かが欲しいのだというのが模範解答ですよね。 「貴方には価値がある」と言ってもらいたいんだろうし、「生まれてきてくれて嬉しい」と思ってもらいたいんだと思う。 私だってそれは思わずにはいられないし、社会を組む生き物には必要な欲求だと思う。
けれどもう一方、言葉として、ただ適当に当て嵌められる場合があると思う。 これが一番苦手な理由だと思うのですが、象徴化に近いんでしょうか。 内心の発露や、解決を持たずに、ただ言葉として扱う人がいるのが苦手。 人に認められたい思いからの言葉なら、認めてもらえば解決する。 でも、まず言葉として気持より先に知って使ってしまうと、内部が無くなっている気がする。 解決も満足も無いまま、果てなく何かを欲求してくる、飢餓感だけの表現みたいな状態になってしまうような。
価値は認めてくれる対象無しには成立しないのに、対象無しで価値を要求されたら果てがない。 それでも「価値を、意味を」と言われると、存在しない物を強請られているような焦りと忌避感が有ります。 個人的な経験によるところが大きいかもしれないけれど。 こんなに価値があるんだと繰り返し主張するくせに、自分で納得していない人が怖い。 大きく燃えている焚火を見て、いつか被害が出るのではと不安になるのと同じで。 定型文や王道な言葉は、本当に怖い。 意味を考えるよりも簡単に使えるから。
一方的な自己解釈ですが、それで苦手なんだから随分独り善がりなことです。
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