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2011/02/06(日)
昔書いたレポートの下書き
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主観と客観について、悪意を一つに論じることは出来ない。
「女は」と口にして蔑む多くの人が、女という言葉が何を指し示すか知らない。 考えることもないのではないだろうか。 調べて知ってしまえば、もうその言い方は出来なくなるのだから。
あまりに知らないと、定義を疑うことも出来ないなんて哀れだ。 でも、自らの不備による無知は少なくとも大人にとっては罪です。 調べることは、精度はともかく簡単な時代になりました。 知ろうと思うことは義務。
脳の大きさを比べる人がいます。 頭蓋骨の違いや、発達の違い、脳の容積と知能の関係については知らないのでしょう。 知能水準の違いを述べたがる人がいます。 彼らが使う統計の多くは、文化的な教育の環境の差別を前提にしてはいない物です。
同じデータだって、幾らでも真逆に表現出来ます。 XX型に成長した脳は脳梁の割合がXY型よりも大きめです。 これを「女性は左右の脳の交流が激しい為に感情的で情報が混乱し易い」と言う人々がいます。 一方、「人類の脳はそもそも一つに発達すべきものが進化に追い付けず分離したのであり、より左右の連携が乏しい男性は動物的で粗野だ」という人々もいる。 そもそも、脳の大きさの差を考慮すれば、脳梁の体積自体はそう変わらないのだが。 どうして脳が左右に分かれているのかという理由の確定さえしていないのに、人は貶すのに熱心だ。
彼らが「女」という時、その言葉が実際に示すのは「自分とは違うので馬鹿にし易い」という意味です。 ヒトの雌を指し示しているわけでは無いのです。 性差別を支持する多くの人が自分の性に関すること、或いは家庭へのコンプレックスに苛まれています。 また人種差別や職種、民族や宗教の差別を同時に持ち合わせる人が大半です。
女性というのは、どういう生物なのか。 男性とどう違うのか。 何によってその違いが生まれるのか。 何の為にその形に進化したのか。 他の動物ではどうなのか、孤立した環境ではどうなのか、将来どう変わるのか。 それらを考え調べ、独自の意見を持って蔑める人間はそういないでしょう。 XとYに免疫と環境適応の仕組み、繁殖の因子を託した生物の歴史は壮大です。 そして割合に、悲しいものです。 そんな事実を、彼らは侮蔑と逃避の道具にしている。
「今時の若者は」という言葉が有りますが、これは人類が電気も使用しない時代から存在する言葉です。 いつの時代にも若者はいるし、その若者は時と共に老人になる。 この文章の「今時の」という言葉は、「かつて若者だった自分」と今の若者を区別する為の道具です。 相手が否定できない条件を蔑みの対象にするのは、抽象的ですが明確です。 年齢も性別も簡単に自分で変えることは出来ない。 蔑む側にとっては、容易に反論されない安全な表現に思えるのです。
これは一種の、決まった方法です。 自分を切り離して、安全な所から「他者」を馬鹿にする為の文法と言えるでしょう。
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