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2010/06/05(土)
肉用の
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高校を卒業してから大学に進ませてもらった。 大学は穏やかで、緩やかで、自由で。 あまりに楽だったので、その間悩むことはほとんど無かった。 今、改めて一日を繰り返すことの苦しさを思い出している。
本当に、人間は「意味」を欲しがるもので。 無いと辛がるし、あると楽になる。 勝手に作ればいいのに、それをしようとしないからこんなに苦労するんだろうな。
ちゃんとした苦しみ方が思い出せないので、すぐ座りこみそうになる。
それなりの幼さが残る頃には、毎日同じ生活の大人が退屈だと思っていた。 でもあれは、出来る人にしか出来ない社会の活動。 するかしないか、という選択の権利が皆にある訳ではない。 気付いた時には、もうちゃんとした大人というものになる機会はどこにも無かった。 残念ながら、駄目人間。 意外にも恐ろしい気持ちです。 死を想像するからだろうか。
「食人種と好意的な交流が可能か」という話をしていました。 結構、可能な気がします。 豚や鶏をペットに出来るし、成り行きによっては猫や犬が食べられる。 現に、金魚は飼ったのに鮒は食べたし。 信頼度と、環境的な安全性の問題なのだろうな。 食べることは大抵、殺すことだから、難しい。 そこが一番、ややこしい。
捕鯨には反対では無いです。 ただ、税金=コストと研究の成果、肉の需要を考えると、事業としては考えどころ。 それこそ、仕分けすれば?と思ってしまう。 鯨や海豚を蔑ろにしているのではないよ。 牛や豚も大事にしてるだけだ。 知能が低ければ残酷な扱いも当然だなんて、そっちの方が惨い理屈じゃないか。 それよりも人口や水のことを考えれば良いと思う。 問題を拗らせる理由はないし、どちらにしろ、食べるのだから。 食べるのならば、無駄ではないと、そういうメンタリティは文化だと思う。
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