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2010/04/15(木)
目標として
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アートと言うのは、それを目的として作られた時、大抵は「非日常」だと思う。 自然とそうなってしまう。 それは好きだ。 声を大にして言える。 個人の創作する、内面の表出する、象徴するその露出が大好きだ。 自分が自分であると人に向かって主張することは美しいし激しい。
一方、アートだと認められる日用品と言うのも多い。 土地や民族独自の文化、受け継がれるデザイン。 合理を求めたその美しさをアートと評されることだって多い。 その二つが融合した物も沢山ある。
そこに自分の足りなさがあるような気がする。 使えないオブジェでも私には日用品に近い。 それは、作りたいと普段から思っているものを作ったから。 毎日の中で思ったことから作られる、日常の一部でしかないから。
何と言えば良いのか。 日常は美しくあるべきだと言うのは簡単だ。 例えば、家の中をモチーフで統一している人達を見かける。 家具も飾りもナチュラルにして、服も合わせ、季節の物を食べる。 それは美しく感じられる生活だし作品だと思う。 部屋の中を赤と黒で統一し、或いはピンクで埋め尽くす。 そういう生活を私も確かにしてみたい。 そういう形の作り方を是非ともしてみたい。
でも、風邪を引いたら部屋は散らかるだろう。 年をとれば不便になるかもしれない。 飽きが来たり、趣味が変わらないとも限らない。 無機質にして見ても自分は有機質で、匂いもすれば汚れも出る。 それが生活なのだから当たり前なのだけど、幸い私はそのことが好きだ。
趣味としてはおかしいのかもしれない。 悲しい空しいと思いつつ愛しいなんて言うのは、詭弁かもしれない。 でも、汚れや散らかり、匂いや劣化は愛おしい。 それが用意された、作られた何かを侵食するのも大好きで。 だから本当は、壊れる様なものを作りたい。 使い古されて処分されることを前提にしたようなものを作りたい。 侵食してくる劣化や経過を際立たせる様な素材を用意してやれたらきっと楽しい。 メメント・モリと近いけれど、もっと変態的な気がする。 拒絶しているのに諦めねばならない、その諦めの先にあるものが好き。 全否定しつつ許容を押し付けられる、何だろう? 明るくて日常的で鬱くしい俗的な、「それが私の死ぬ理由」みたいなもの。 それを日常のものとして非日常に昇華出来たら、一番嬉しいのだと思う。
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