|
2010/11/23(火)
生存ということ
|
|
|
久しぶりに日記を書かせてもらうことにしました。 内容が苦しいかもしれません。 昨日の日記を書いたメンバーに、書いて欲しいと行って貰えたので書きます。
私は複数の病気です。 うち幾つかは原因も治し方も分からず、また幾つかは治せません。 何度か臨終を覚悟せよと医師に宣告されています。 それでも、未だに生きています。 子供の頃からずっと、生きることは苦痛に耐えることでした。 他に何もしていないと言ってもいい、甘やかされた生物です。 我ながら、生きるべきでない物を生かすグロテスクさや残酷さを感じたことさえあります。
朝、目が覚めてからまだ少し布団にいようと努力します。 起きても何も出来ないのが苦痛だからです。 体が痛くなってから起きて、気分を悪くしない為に何もせずに昼を待ちます。 食べられないのですが、死なない為に気分を悪くしつつ昼ご飯を頂きます。 それから長い時間が始まります。 体調を崩さない為に、ほとんどの行動が出来ません。 本を読むのもTVを見るのも時間が制限されます。 それ以外の時間は、布団に入って夢を見ているか、布団に入らないで夢を見ています。
何とか夜になれば夕御飯を食べなくてはなりません。 でなければ薬も飲めないし、体ももたないからです。 体調が良ければこの後にこうしてPCの前に座ることも出来ます。
もう二十年以上、この生活です。 生きる意味などとっくに見失いました。 死んで楽になる保証はないとか、そんなのは詭弁です。 無は苦痛よりも楽に決まっている。 それでも、私が生きている。 生きることは不思議です。 とっくに死んでいてもおかしくないのに、苦痛なのに、こうして生きている。
十代の頃に、鬱病でもないのに鬱病の薬が出る様になりました。 そうでもしなければこの生活に精神が耐えられないと言われました。 でもその薬は、現在では飲むことが出来ません。 私の精神は耐えているのでしょうか。 生きていてくれているのでしょうか。
生存ということは不思議です。 そうとしか言いようがありません。 私はまだしばらく耐えなければならないようです。 まだしばらく耐えさせてもらえるようです。 感謝だけは、しているのです。 例え苦痛しかない無意味な時間と惰性だとしても、私の命は私の物。 これを受け取れたことは無上に喜ばしいことなのです。 けれど自殺してしまっても、それとこれとは矛盾しないと思うのです。 幸福な死も満足な死も確かに存在すると言うことを、死には確かな意味があると言うことを、学習する為の人生なのかもしれません。 もしそうならば、それが私に必要だったのでしょう。 ならばそれがこの人生の意味です。 ああ良かったと、そう思って死ぬのだと期待しています。
|
|
|