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2009/07/05(日)
言祝ぐ
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人の死をあまり悲しがらない態度を、冷たいと言われるのだけど。 私だって話せなくなるのは寂しい。 これから有ったかもしれない、新しいその人を知ることは永遠に無いと知るのが悲しい。 けれどそれは飽くまでも別れの悲しさで、死の悲しさではない。
「その人の生が好く満了した、完成された上での良い終わりだったと思いたいから」 これだと少し作られた言葉になる。
「誰でも死ぬ、私は置いて往かれるが、私も誰かを置いて逝く」 簡潔にすると今度は足りない気がしてくるが、本質はやはりこれだと思う。
遺伝子が体を乗り継ぎ、「個」が連なり重なり続いていく。 点が連なれば線に成り、それはどこかへ向かうかもしれない。 私は取るに足らない点の一つなので、線のどこにあろうと変わらない。 そして同時に、どこにいようと線の一部であることも変わらない。 それに安堵するのが私の種族愛だ。
私は死ぬ。 それを私は、生物として嫌がり、人格として恐れる。 痛いのは嫌、苦しいのは嫌、寂しいのも切ないのも嫌だ。 でも死はそれらとは別の部分で歓迎されている。 生が喜ばしいならば死も同じ。 コインの表だけを手に取ることは出来ない。 この幸せは全て、死を前提とした生の上でのこと。 この生は幸福だ。 この上なく満足だ。 だから私は死が嫌ではない。 幸福を受け取る為なら、死のある生を喜ぶ。 同じ幸福が誰の上にも在るのだと信じたい。 例え本人が、それを知らなかったとしても。
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