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2009/07/11(土)
母
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この蒸し暑さ。 楽ではないけれど好きです。 如何にも日本と感じられるし。 それに、何だか空気の濃度や密度が高いようで。 四季はどれもそれぞれ、特別ですが。
「日本の女」「母」で、まず思い浮かぶのは和服に髪を結った中年の女性。 若い女の子はあまり思い浮かびません。 うっすら暗い中にいる、座っている着物の女性。 どことなく和紙を連想する、室内の空気に馴染みの良さそうな肌。 優しいとも惨いとも思える、黒い瞳。 あまり楽しそうではない、けれど苦しそうでもない、曖昧な表情。 無表情と、穏やかさと、日常臭い残酷さ。 動きが制限される和服、抑圧。 家事をする手、肉のついた身体。 そんな女性が、じっと座っている様子を連想する。 何だろうか、どこかで見たのだろうか。 和風のホラー小説の挿絵か何かだったのかもしれない。 私はその連想が、少し怖いので。
大らかさは残酷とも言える。 抑圧は秘匿とも言える。 明るさは無遠慮ともとれるし、しとやかさはもどかしさにもなる。 そういう矛盾を全部飲みこんで、隠してしまう。 それでなお、穏やかにしている。 そのイメージがある。
タイの方の戦時の日本に対する「アジアの母」という言葉の連想かもしれない。 「母」の、イメージが強い。 特に男子としての目線で見る母のようだ。 黙って坐したまま、子供を護り支配し慈しみ、時には殺すような母。 恐ろしく、忘れられることが無く、根源の象徴でもある存在。 どちらかと言えば陰陽のうち陰で、終着点としても連想される人物。 女性としての抑圧を受け、親としての抑圧を施す。 優しく許容する時には犠牲者のように従順で広大。 叱り罰する時には鬼や修羅の様に絶対的で恐ろしい。 その肉が自分を作り出し、その血が乳として自分を育てた。 限りなく近しいが故に、一番の拒絶も与えられる。 母にとって子供はいつまでも子供であり、誰にとっても母はいる。 だから誰もその影響から逃れられられない。 逃げたつもりでいても、最後の扉を開ければきっとそこにいる。
何も、産んだ存在としての母だけではない。 産まない者も、産めない者も、必ず母としての自分を意識する。 その選択・機会が無かったという意味で「産まぬ母」なのだと思う。 それを非難する人もいれば、侮蔑する人もいる。 女性であることと母になることがほとんど同義だと思っている人は多い。 産む道具だと思っている人だって多いだろう。 そこに、言葉が出来て以降の文化と、獣としてのヒトの間の何かがある。 それがとても、怖い。
どうも書けば書くほどまとまらない。 獣としての雌と、人間としての女。 その両方に跨る母と言う、状態或いは表現。 文明や言語がそこに与えた、差別、侮蔑、見下し、蔑視、憧憬、盲信。 産み増える、存在するという拘束力、支配力。 当たり前に産み生きさせるという傲慢。 そこに纏わる恐怖を含んだ畏れの思いは、自国に対しての思いにどうも近いようだ。 自分に対して、それ以外の全てに対しての愛情で有り憎しみで有り、尊敬で侮蔑で。 要は「外界」の象徴、そこへ繋がる道のイメージがある。 やはり、私にはどうにも書ききれない。 こういうことをもっと優れた言葉で書いている人が、絶対にどこかにいるはずなのに。 御存知でしたらお教え頂きたい。
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