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2009/06/19(金)
ギフテッド
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某展示会のDMを、やっと捨てました。 こういう物は、取ってはおけないので、時間を間に置いてでも諦める。 でも凝っていて綺麗で、勿体ないなと思ってしまうけれど。 伝達手段だと割り切って、その役目以上に楽しませてくれたことを、感謝して。 それで、捨てる。 捨てるというのは、難しいけれど、容赦なく必要でも有ります。 切ない。
でも、片付けは気持ちが良い。
私は子供時代、片付けというものを知らなかった。 散らかして叱られても、整頓という行動自体を理解していない。 だから、一か所に詰め込む以外の方法が分からない。 他にも色々、人と比べて出来ないことが多かった。 それは軽いことばかりだったから、障害とは呼べないんだろうと思う。 ただ甘やかされていたからなのかもしれない。 でも、大人になって随分マシになったのは片付け方を教えてもらったおかげです。 そしてその片付け方は、「そういう」子供達の為の方法だった。 親には教えられないコツや法則。 教えてくれる人と出会えたことを、今はひたすらに感謝しています。
周囲に、片付けられない人や、片付けられないから物を持たないという人がいます。 ADDやADHD、ギフテッドな人達がいます。 浮いている、ちょっとおかしい人達。 性格が良いと決まった訳でもなく、ヒトとしてとことん駄目な人もいる。 だから受け入れてほしいとか、排除するなとか、そういう風には思わない。 接していて危険を感じることも、嫌悪を感じることもある。 でも単純にその天性、才能、性質が、勿体ないと感じるのです。 言葉はともかく、上手く「使う」ことが出来れば飛躍があるはず。 変わっていることを割り切って付き合っていけば、希有な楽しみが得られる人達。 日本でもギフテッド教育を導入すればいいのにと思う。 平坦化が過ぎるなんていうのは余りにも当たり前過ぎる意見だけれど。 能力の差というのは、面白いと思ってるのです。 決して天性には恵まれなかった私が思う。 人と違うことは、楽しいことです。 それで苦痛もあるし、負けることも悲しい。 でも、そんな苦痛ぐらいなら戦ってでも、得られる楽しみの方が欲しい。 出来る人が出来ない人を踏みつけてこそ手が届く物は絶対にある。 今の日本は、それぐらいの痛みと争いがあっても、平穏を維持出来るはず。 少しぐらいの痛みは、平和ボケというのを直してくれるかもしれない。 もっと負けてもいいから、もっと勝つ人を見たい。 それにそういう社会の方が、私が出会えたような「コツとの出会い」が増えると思うのです。
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