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2009/04/14(火)
自己拒否
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人から不快に思われていると感じるのは、標準的なことだと思う。 後ろめたさや対人性の反射的な怯え、コンプレックスや後悔。 暗いから隠せと言われるのかもしれない。 明るくないと余計に周囲に不快感を与えるのかもしれない。 それでも、力強く正しく健康的な自分は嫌いだ。 そんなのは屑でしかないから死ねばいいと、稀有なほど直情的な嫌悪を感じる。 何故だろう。 何故なんだろう。
音楽はジャンルを問わず聞くけれど、好き嫌いが激しい。 誰かに向けた歌は好きではない。 はっきりと言えば、「不特定多数」や「定型」、「理想」に向けた歌が苦手。 上から目線と感じてしまうのは、コンプレックスのせいだが。 「皆、こうだよね?」と問いかけられるのは恐怖。 大衆から排除される気分は生物的に不快なのだから。
自分の為の歌が好き。 共感或いは嫌悪を持つ、限定された集団に向けられるのも良い。 結局は聞いて綺麗だったら、歌詞を意図的に聞き逃してでも聞いてしまうけど。 余りにもテンプレートな歌詞は旋律を聞くのさえ苦痛にする。 音楽の為の歌詞か、表現したい物が定まりきっている歌詞が良い。
‘麻○首相「日本が目指すべき国家像を」’という見出しを見かけて記事を読んだ。 争う暇が有ったら国の為になることを言えと、どれだけの人が思っていたことだろう。 実力や伴う事情は後回しでも良い。 正論の何と気持ちの良いことか。 比較も効率も後のこと。 何をしたいのか、どうしたいのか、それからその為に必要な計画。 当たり前の手順だったはずなのに、どうしてこんなにも難しくなってしまったのか。 単純に、平和に呆けてしまっているのかもしれない。 失う危険性を感じられなくなって、安定を維持するの必要性を忘れているのか。
自分が死ぬ事を考えたら、好きなものや大切なものが欲しくなる。 好きなものや大切なものを守りたいと思えば、国も大事に出来るはず。 愛と言うのは維持に必要なツールの一つでもあると考える。
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