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2009/03/05(木) 羽虫の群れ
ネットの悪口で自殺、とか聞くと不可解。
無記名で書かれる程度の軽い言葉。
好きでも無い、自分にとってはどうでもいい人達の反応。
私の「ネット上の悪評」はそういうイメージだから。

人に注目されるのは怖い。
悪意の対象にされるのはもっと怖い。
でも、好きな誰かに嫌われる方がもっともっと怖くないだろうか。

言葉には物理的な力は無いし、精神的に傷付いても観測は不可能。
確かに有ったとしても共有されないものは、自分だけのもの。
どんなに理不尽に怒っても社会は変わらないし、どんなに誰かを好いても好かれるとは限らない。
たった一人のものが、一体どれだけ重要なんだろう。
人の言葉に傷付くというのは、一体社会においてどんな現象なんだろう。

例えばこの日記にだって、嫌いなもののことを書くことがある。
それを好きな人が私の文章を読んで傷付くかも知れない。
自虐の文章だって、読めば不愉快になる人も沢山いるだろう。
それでも私は「嫌い」とか「無くなればいい」とか、そういった言葉を使用する。
もしかしたら、傷付く人がいるかも知れないし、自殺するかも知れない。
でも、不特定多数の目に付く可能性があることを知って書いた文章だ。
それぐらいのことは、承知して、書くべきだと思っている。
だからもしも誰かが私の日記を読んで自殺しても、その責めを他人から受けるつもりはない。
私が自己責任で発した言葉、それを自己意思で読んだ誰か。
ネットを挟むと曖昧になるかもしれないが、これだって会話の一つには違いないと思う。
だから傷付いた誰か本人にしか、責められたくない。
会話で人を死なせた責任は、追及されるべきなのだろうか?

「言葉の暴力」という表現が不思議。
言葉には「力」があるのだろうか?
確かに人を感動させたり悲しませたりは出来る。
その結果、大きな結果が出るかも知れない。
けれど結果は行動の結果なのであって、感情の結果ではない。
言葉の力はどこまで作用と認められるのだろう。

実の親や一番好きな人、信じていた人から酷い言葉をかけられて死ぬ人はいる。
でもそれは、言葉のせいで死ぬのではないと思う。
言葉が伝達した意思によって死ぬのだと思う。
相手の意思が言葉で伝わり、言葉から理解されたその内容で、自分の中の何かが壊れるから死にたくなるんだろう。

会ったこともない、好きでも無い、深く考えているわけでもないだろう誰か。
その不特定多数の貶し言葉は、意志の伝達ではない。
だって、相手が読むという保証もない一方通行だから。
それでも死にたくなってしまう。
その気持ちが、不思議だ。
多分その人の中にはもともと、「多数」の発する言葉に支えられて出来た何かがあるんだろうな。
だから同じ「多数」の言葉で壊されてしまうんだ。
 


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