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2009/02/23(月)
渇望
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押しつけがましい寂しさの主張が嫌い。 努力もせずに言われる「分かってくれない」という言葉が嫌い。 自分だって一人で大丈夫という性格ではないから、共感は出来るかもしれないけれど。
孤独感の根本に、飢えがあるのを信じてる。 それは誰にでも有るのが当然のもので、否定はしない。 でも、当然だからと前面に押し出し、恥ずかしげもなく主張されるのは嫌い。 人に縋り、友達を周りに掻き集め、運命の人なら癒してくれると夢を見る。 そういうのが、駄目だ。
誰でもお腹が減る。 生きる為に必要だから、空腹になる。 食べ物が必要で、それを手に入れる為には色々と方法がある。 でも空腹になったって、それで泥棒をすれば他と変わらぬ犯罪だ。 「お腹が空いてたから仕方なかった」は通じない。 「だって空腹で」と言われても、そんなの特別でも何でもない。 ただの欲求で、皆持っているものなんだから。 泥棒がしたくなくて餓死する人だって実際にいる。
孤独感も、同じように考えている。 「寂しくて」は言い訳にならない。
「何も知らないくせに」「お前なんかに分かるか」 そういう台詞が、分からない。 他人が他人である以上、何も分からないのが当たり前だ。 ほんの少し知ってもらうのにだって、気持ちも言葉も尽くさねばならない。 それなのに、自分では何もせずに「分からない」と非難する。
どんなに分かって欲しくたって、それで何をするかはただの選択だ。 意思に基づいてやった行動を正当化するのは無理。 私には何も分からないかもしれないけれど、それは私がその人ではないから。 分かったふりをしないし、それを理由に特別に何か許したりする気もない。 そもそも相手のことを分かりたいと思い、分かってほしいと行動するのが、性欲とは違う好意の原点だと思う。
寂しい寂しいと口に出すことは、したくない。 一度寂しいと言ってしまったら止まらなくなる。 自分をやめねばいけなくなる。 そもそもは、自分はとてつもなく、寂しがるのだから。 飢えに任せて、酷いことばかりしてしまう人間になるに違いない。 自分の弱さを考えればその進行は早いだろうから、躓けばもう戻れない。
ここまで書いて、要は「自分は寂しがるけれど他人が言うと腹が立つ」ですむ内容のような気がしてならない。 自分のことを好きにならないと人を好きにはなれないというあれは、意外と正しいのかも。 それなら私は、ずっと誰のことも心底からは好きにならないだろうな。
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