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2009/11/03(火)
絶望消費量
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やりたいことは、単にやりたいだけ、自分が気持ちが良い楽しいだけのことばかりです。 恵まれ過ぎていて、幸せ過ぎて、なんだかもう死にたい。
国の為にとか、家族に喜んでもらえることとか、それなりに考えます。 誇れる人生はきっと気持ちが良いだろう。
でも、例えばと考えると何も出てこない。
例えば、男女差別というのを昔はどうにかしたかった。 自分がどちらかということではなく、生まれた形を理由に好きな人が好きなことを諦めるのが悲しくて。 でも、実際には現代の日本では、きちんと教育も行われ、差別が非難されている。 これから頑張れる場所なんてない。 これ以上何をしても、受け入れる人は受け入れ、それ以外の人はやっぱり受け入れないだろう。 それぞれの割合は、もう情報や教育ではそんなに変動しないと思う。 自分で生活していても、困るほどのことはあまり起きていない。
やるなら、もっと他の国なのだろう。 でも、そこにあるのは言語の通じない状態での教育や情報。 或いは、生活に根付いた宗教や習慣。 それに立ち向かえるなんて、とても思えない。 それらの強さを、私は社会学でも宗教学でも学んでいる。 自分がどんなに頑張っても、あと数十年では何も出来ない。 多くの人を動かすことは、私には出来ない。 人徳も魅力もパワーも説得力も知力も財力も無い。 私じゃなくて、もっと強く魅力的な人がやるべきなのだ。 一番貢献出来るのは、邪魔にならないことだと思う。
じゃあ、今度は人に関すること以外で考えてみる。 例えば、技術や知識に対して今からの時間を全て費やしたらどうだろう。
私は化学や統計の研究では、驚くほど役に立たない。 これからどんなに頑張っても、人並みにさえなれない。 才能のある人にお金を稼いでいくぐらいがせいぜいの貢献だと思う。
工芸だったら、どうだろうか? 何か素晴らしい物を後に残すのに、役に立てるだろうか。 でも、これも怖い。 私なんかが混じったら、そこで歴史が掠れそうで。 だって、こんなにも不器用なのだし、根気も無い。 好きだけではどうにもならないということを、今までの人生で学び続けてきた。
そうやって、幾つも幾つも簡単に諦める。
勿論、努力してから考えろというのだって正論だ。 でも、私の人生はのんびりと切羽詰まっている。 学生の頃、テスト前日にのんびりとしていた。 気分は焦っているし、残り時間も知っているのに、動かなかった。 そして仕方が無いなと諦めながら学校に向かった。 あの時の気持ちが、今もそのまま。
でも、知っているので。 どんなに下らないどうでもいい人生でも、自分が幸せだろうと知っているので。 もう幸福感や満足感が身に染みついてしまって、とれない。 子供を飢えさせない親は良い親だと思うけれど、飢えない子供は可哀想なのかも。 痛みも苦しみもそれなりに快感なのだと、それだけはきちんと知っている。 何でも知れる、手に取れる、夢の見れる世代は、酷だな。 そんなの動物としてつまらないだろうに。 でもヒトは、それを幸福と定義したのだから仕方が無い。 諦めることをこれから何十年かかけて、死ぬまでに幸福だと思えるようにならなければ。
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