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2008/08/29(金)
破滅の愛
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或いは恋でも良いのだが、悲恋とは、違う。
好きという感情の形は様々だけれど、本質は執着。 反対後は嫌いではなく、無関心だとも言う。 執着が関心の極みである時、そこには破滅もあり得る。
愛情には見えない場合もある。 憎しみにしか見えない場合もある。 だが、破滅の愛を本質として生まれ持つ人々は存在する。
それは愛故に望まれる消滅であったり、その手で行われる破壊であったりする。 また接点の無い人間を心から愛して、それでいて何の行動も起こさずにすむ者もいる。 誰か一人を愛するあまり、他の何もかもを憎まずにいられない者もいる。
メンバーには、関心が行き過ぎて壊れた博愛を持つ者が複数いる。 彼女らの愛が本物であるとは、付き合いが長ければ分かる。 それが何に由来するのかは知らないが、外から見れば一つの諦念に近いと思う。 好きで、好きで、何もかも受容する。 その果てに、完全な拒絶が出来なくなる。 行動や表出ではない。 ただ免疫を無くした体の様に、入った物に対する抵抗を持たないのだろう。 無残な殺され方をしたとしても、きっと最後には赦してしまえるのだ。 そして自分が苦しんだ残酷な世界を、やはり変わらずに愛するだろう。 もしも死んだのが自分の愛する人であっても、同じだろう。 許すという機能の著しく欠けた私には不可能だ。
けれどやがて、終わりは来るのではないかと思う。 その死を許せぬ誰かと出会う時、或いはそういう思いを持つことを決意した時。 彼女らは博愛を失って、ただ破滅の愛を持つ人になるだろう。
愛する者が死ぬのを待ち望むか、常にその死に怯えるか。 相手の破滅に安堵するのか、自らの破滅で以ってしか安堵を得られないのか。 何れにしても、緊迫し乾いた硬質な愛が、彼女達に訪れる。 不吉を告げるようでいて、私はその未来をむしろ祝福し愛している。 羨んでいるのかもしれない。 自分を諦めきれず、生温い日常を捨て切れず、また熱を伴わない愛を持つことが出来ないので。
私は日常に生きるニンゲンとしての社会的な愛情ばかり、持つことになるのだろう。 それはひどく残念なことだ。 もしも彼女達の誰かが、最後まで今のまま生きて死んだら。 その死は落ちた花の様に無為で綺麗だと思う。
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