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2008/06/12(木)
合掌
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どうも最近は世間から遠ざかっていたい気分なのですが。 改めて、秋葉原で亡くなった方々に御冥福を祈ります。 この「祈る」という言葉の意味の分からない人が多いようで、現場にカメラを向ける人達を画面で多く見かけます。 人が亡くなった場所だということに、自分なりの意味を押し付ける気はないけれど。 彼らの態度を咎めない世間で、私は生きていきたくはない。
亡くなる人は大勢います。 ニュースにもならず、特徴も無い死に方で死ぬ、多くの人。 あの日あの時間の秋葉原で、例えば漫画喫茶でひっそり亡くなった人がいたとして。 その人は遺骸にフラッシュも向けられなければ、人々に回顧されることもない。 私が不愉快に思うことも無い。 それはそれで動物の様に正しい死の様な気もします。 けれどおそらく、全ては幻想。 死は須らく死でしかない。
あの犯人の生涯は、悲しいし寂しい。 同情は無いし、憐憫は微塵も抱けないけれど。 でも、あのイメージは身近なもので。 人の好意を求めて、けれど切欠があれば自分から強く突き放す。 恋人を欲しがっているのも本当は姿勢だけで、そんな関係を維持出来る力は無い。 自分も人も非難の対象、何も好きになれない全部捨てたい。 仕事も環境も、同じ場所で長く続けることは出来ない。 自らを捨てることは思いつけないので、いつまでも何かから逃げている。 全てが漫然として色褪せていて鈍く、刺激だけが時々色付いて見える。 出口だと思って目指しているものが破滅だとは気付けない。 その先にあるのが、今とそう違わないただの日常であることにも。 そんな人、沢山いるだろう。 現に、似た様な人間関係と似た様な人生と似た様な外見の友達がいる。 彼らは大抵、接触を切るとそのままどこかへ消えてしまう。
犯人のしたことには、道義上の怒りはあまり感じない。 起きた事には怒りを感じる。 けれど個人に対しては、「仕方の無い奴」ぐらいにしか思えない。 いらない人間とか、駄目な奴とか、言葉では悪口かもしれない。 けれど事実として、数として処分されるしかない最期に向かってだらだらと歩き続けている人間の数は日本だけでも決して少なくは無いのだろうと思う。
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