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2008/10/07(火)
父性神話
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一神教の神が大抵男性を帯びているのは、父性故だと思っている。 そこに「対」存在であることが求められているから。 偏在し「同」存在である母性では、統一や支配は成り立たない。 求められているのは集中と破壊だ。 その機能を多数に応用する為のシステムだ。
けれど、父性と雄性を混同してしまうのが問題なのだ。 人間はヒトという獣であることをすぐに忘れる。 動物の一つでなくなれば、「男」は雄性の本質を失う。 父と男は、本来同一視していいものではない。 雌性と父性も切り離せるものではない。 また当然に、父性も母性無くしては成立しない。 それなのに、いつしか父性は男と間違えられれる。 かくして、歪みと不整な上下関係は正統とされてしまう。 何と言う無様。 セックスとジェンダーの区別も出来ない群衆。
だから私は多神教、特に母性に含まれる雌性の割合が少ないものを好む。 現代の世界は、平等が好きなのだ。 偏在し許容する母性を以て、父性の厳格を支えるのが筋では。 そこに雌性さえ主張しなければ、反発も少ない。 そもそも結晶的な思考は、完全には排除し得ないのだし。 父性も雄性も、同存在である母には容易く受け入れられる。 拒否していたものを受け入れるより、同和している場所で足掻く方がずっと簡単だろう。 その簡単さは、今まさに必要であるだろうし。 けれどその為にもまず、人間がヒトで在ることを思い出さねば。
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