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2008/10/30(木)
坩堝
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以前心理の症例で読んだ抑圧のことを何度も思い出す。 友人と思った人にレイプされた女性の話。 結局は子供が出来て結婚して、一緒に暮らしている。 今の生活はとても幸せで、それ自体には間違いはない。 けれどレイプされた時の怒りが残留していて、ふとした瞬間に思いだす。 憎くて憎くて殺したくて、もうどうしようもない。 背中に何かを振り下ろすのを、必死で我慢している。 いつかこの夫を殺してしまうかもしれないと、ずっと考えながら。
その憎悪の「フラッシュバック」を、丹念に丁寧に想像する。 何度も想像するのは、頭の中で擬似的な追体験をするのに近い。 私の中にも似た憎悪のリピートが存在する。 その憎悪を想像の憎悪に重ね合わせて、共感しようとする。 誰もがそうなのかもしれないと、考えたりする。 けれど真髄はそこではない。
自分の憎悪を解決することは出来ない、或いは難しい。 けれど、人の体験を想像するなら解決は簡潔。 夫を殺せばいい。 油断し好いている相手を滅茶苦茶に殴って潰して痛い目に合わせる。 泣かせて逃げさせて追い付いて刺して抉って動かなくなるまで壊し尽す。 これを想像する時の快感は、本当に暗く暖かく不思議だ。 実に充実して「すっきり」する。 ただ爽快なのではない。 肉を食べるのに似た、性的快感にも近いような征服感がと達成感。 今正に事を成したという充実。 ここから本当に人生が始まるのだとでも言うような、素晴らしい気持ち。 うっとりとする。
けれど、本当は知っている。 一瞬ならばいい、人の体験からの想像なら良い。 でも、本当にはその快感は味わえない。 憎悪は身の内にあるべき火種。 一度空気を吹き込んでしまえば、身を燃やすものに他ならない。 それでも良いと思ってしまいそうな、快楽ではあるのだけれど。
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