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2007/04/28(土)
聖畜
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ジーニという虐待された少女の話を読みました。 13歳で保護されるまで、便器に括りつけられていたという話を。
ほぼ盲目の母と、独裁的な父の間に生まれる。 それ以来、便器にくくりつけられて糞尿を垂れ流しのまま。 臀部には便器の形にタコが出来ていた。 怒鳴られたり殴られたりしていたので、言葉も知らない。
こんな事はあまり良い意見だとは思われないと思うのですが。 ある意味、彼女の存在はとても聖的だと思うのです。 ヒトとして生まれ、ヒトとして扱われない。 ヒトが多くの動物にそうするように、一方的に扱われる。 そういう事に、何だか救いを感じるのです。
私はキリスト教についてよく知りません。 しかし、イエス・キリストは人々の為に死ぬと言ったと聞いています。 人々の贖罪の為に、死ぬということ。 それは確かに崇められるべき事でしょうけれど。 きっと、ただ死ぬのでは駄目だったのです。 罪人の様に扱われ、蔑まれて虐げられて殺される。 生贄の子羊と例えられるように、無力なままの殺され方。 聖人から罪人へ、ヒトから家畜へ。 ヒトがその降下を経る事が、聖的だと感じるのです。 何と言えばいいのか、それこそが愛であるというような。
歪んでいるとか、穢れているとか言われる。 けれど確かに聖であって愛であるものが存在すると思うのです。 理解したり、共感したりしようとは思いませんが。 ただ、自分が生きていることと死ぬ事を知っているように。 それが在ると知っていることが、純粋に素晴らしいとだけ感じます。
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