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2007/10/09(火)
瞬間
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グロテスクを思いつめる時があるのですが。
グロテスクと言うのは、瞬間だと思います。 瞬間的な拒否、反発。 どんなに気持ちの悪いものでも、慣れてしまえば何でもない。 内臓だって血液だって、外科医や肉屋にとっては日常以外ではないでしょう。
例えば内臓に手を突っ込むことを空想する。 鮮明に、吐き気が湧くほど懸命に想像する。 それでも、毎日繰り返せば「ただの」内臓でしかなくなります。
そこで実際に内臓に手を突っ込めば、別かもしれない。 匂いや温度に、嘔吐するかもしれない。 けれど、それさえ繰り返せば何も感じなくなる。
グロテスクの本質は、その平坦さかもしれない。
物心付くまで、自分が親に「強姦」されていることに気付かない子供。 他に生き方を知らないから、吐瀉物に塗れて寝る浮浪者。 毎日死体に遭遇することが生活の戦地。 内戦と言う言葉も知らず、毎日人を殺している少年兵。
死も性も無く、ただ人としてグロテスクな場合もある。 毎日親の罵りあいを聞く子供とか。 意識がはっきりとしていると伝えることの出来ない障害や老化。 人が苦しむことに何も思わない群集。
繁殖、食事、排泄、老化、生きてることはグロテスクで。 有機だけかと思うと、鉱石や結晶の成長もそう変わりなく。 日常が平坦ならば、その作り物めいた平穏を支えている多大な犠牲と無駄に、グロテスク以外を感じられない。
瞬間だからこそだと、思うのです。
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