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2006/05/20(土)
コンプレックス
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私にはコンプレックスが多いですが、メンバーと接している時に大きい一つ。 それは「自分が普通であること」のコンプレックスだと思います。 この場合の普通は、平凡・平均的ではなくて、凡庸で退屈であること。 個性というか、確固たる固有の体験の積み重ね。 それが欲しくて、自分に無かったらと思うと怖くて、仕方が有りません。
全く平均的なら、それでもまだ良かったかもしれません。 基準というのはすぐにぶれるものだから。 でも、私は大変恵まれていた。それには不満は有りません。 けれど、私が求めるものの根幹の一つは不遇だと思うのです。 ネガティブにしろポジティブにしろ、方向に関わらずエネルギー。 そのエネルギーの元の一つは、不遇からの脱出に対する飢えだと。 だからこそ、飢えることの無い自分には必要なものが足りないんじゃないだろうか。
丈夫では有りませんが、苦痛に塗れて生きているという程では有りません。 何度か死に掛けてはいますが、日常的なそれから受ける感銘は薄いものです。 怪我をしたことはありますが、手当てを受けて回復します。 不満な事は有りますが、対応が求められているものは有りません。 自分に足りないものは多いのですが、それで出来ない事も特に思いつかず。 一番怖いのは、疑うことなのです。 「感性を養う要素が足りないのか」「要素を受け止める感性が無いのか」 それは、目を背けたい自問自答です。
鬱屈した性格ですが、内に篭る鬼気すらも薄い。 自傷行為に及んでも、痛みからも逃げ出したく。 書く事を好いても、書き上げられるものが無く。 傷つき平伏し這い回り、その中でしか見えないものはあると思います。 俗で薄く汚れた空気なかに、芽生えるものもあると思います。 恵まれた環境から生まれるもの有るのでしょうが、それは私には無かった。 自分が「普通」であることのコンプレックスなんて、壮絶に愚かではあるのです。 それでも、固有として主張出来るものを欲することは仕方が有りません。
殴られて、貶されて育ったメンバーがいる。 死と向き合う事を繰り返したメンバーがいる。 幼い頃からの特徴に、理解に飢えたメンバーがいる。 それを羨むなど、言えるでしょうか。 しかしその上で私は、陰鬱にでも放埓にでもなりたかった。 薄い自我というものに、耐えられそうにないのです。 生きることだけに磨り減る人生なら、何とか自然に早く閉じて欲しい。
暗く長い文章で申し訳ない。死にたいとは思っておりませんので。 私は種の輪の一環として、自分の実在を認めております。
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