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2006/10/18(水)
五重
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昨日の日記に出ていた漢字。 私は「五重」でいつえ(いつへ)と読むのを最近知りました。 五重の塔、と連想してごじゅうと読んでしまいますよね。
生きていくのが大変です。 普通に生活していくのが難しいです。 簡単に出来る筈の事が、大勢の人がやっているはずの事が出来ません。 何故出来ないのかと言われても、別に何が悪い訳でもないのです。 もしも私がもっと健康でもっと勤勉であったとしても、今と同じ状態でしょう。 普通の事が出来る・出来ないの境を決める何かがあるのだと思います。 別にどちらが良い悪いではなく、割合として。
人間は生きるのが悪いわけでも死ぬのが良いわけでもなく。 生きるものが生き、死ぬものが死ぬ。 善悪の基準は決めるものであって決まっているものではない。 そう、思って生きています。 例えば親が子供を虐待して殺してしまう。 きっと、そうする権利は親には無いのでしょう。 しかし逆に、誰かにそれをする権利があるわけでもない。 ならば、それは誰にでも権利があるのと同じことではないですか。 教師が気に入らない生徒を苛めて生徒が自殺する。 悪かったのは教師か、けを求めずに死んだ生徒の方か。 教師には気に入らない人間を攻撃する権利はなかったのか 善悪を決め規則に変え、「苛めてはいけない」と言う。 それに逆らう者を全て殺したとしても、その事象がなくなることはあるだろうか。
自分がより安全に生きる為に、人は他人の痛みに敏感です。 自分が攻撃されたくないから、攻撃する物は何でも排除したがる。 けれど、死は死です。 「死んではいけない」なんてナンセンスで無粋です。 究極に個人のものでしかないのに、そんなに恐れるべきなのか。 もっと恐れるべきは、種の存亡なのではないかと思ってしまう。 けれどそれを考えるなら、真っ先に死ぬべきは自分なのです。 生と死は、不可解で明快で素敵ですね。 私は、好きです。
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