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2017/04/11(火)
老人の誇り
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最近の秋山郷ではマタギのあり方もずいぶんと変わって来た。昭和30年代にカモシカが希少動物に指定され、クマも穴熊猟が禁止された。 文化文政のころに秋田の阿仁マタギが伝えた狩猟は猟師の数を激減させて今日に至っている。 昨夜一晩中吹きすさんだ風と雨が朝まで続くなか、今日は秋山老人クラブの総会の日だった。栄村の老人会もひとつが消えたと報告があった。さしもの山間地域の老人たちもだんだんと少なくなった。ここにはまだ50名近い会員がいるのだが、今日出席したひとはそのうちの3割ほどだった。秋山の文化は老人たちの体のなかに閉じこもって少しづつ消えようとしている。 「昔の猟はどんなものだった」「いや、昭和30年当時、外へ稼ぎに出ても3000円ももらえない時代に、テンをひとつ獲れば2000円はした」と言う。 津南の秋成から冬の間は毛皮を買いにあきんどが二組やって来て買い付けたという。その後テンやムササビは数を減らしたがキツネやタヌキなどはインチ幾らで売れたと言う。 秋山の毛皮は質がよく外国に渡ったとも言う。商人もなかなかしたたかで値段の交渉にも騙されないように気を使ったものだったようだ。 福一さんは言う。 「鉄砲担いでする猟師もいたし、その夜、盆ござの上で猟をする者もいたそうだ。大根をサイコロに切って商人に売った代金を少しづつ賭けて遊んだのだ。みんなあの頃はやることもなくてな、酒は買えないからどぶろくだな…」 気の利いた者は、付きのある人のところに引っ付いて「お前はサイコロを見ていろ、金は俺が預かってやる」といって何円かをネコババする したたかな者もいたようだ。それを知りながらもみんな見て見ぬふりをする。小さな村でどこの家は金がない、ここの家は病人がいるというような家庭のけいざいはみんな分かっていた。平和な社会だったのだろう。 そう言ったことを昨日のように笑いながら話す元マタギの人の昔話を聞いて来た。 秋山は気候の厳しいところで作物も良くできない。冬はクマ猟や小ケモノ撃ちで、夏は岩魚を釣っては発哺や草津に売りに出た。峻険な山坂を越え、売ったお金は子供のクツや文房具に変わった。 こういった必死の生き方は日本中どこに行っても聞かなくなったが、老人会に集まった人たちの心のなか、男にも女にもちゃんと仕舞われていると思った。 今日届いたセル指揮のワグナー管弦楽曲を聴いているせいでちょっと勢いが付きすぎたようだ。そこのところはスマン!
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