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2016/09/20(火)
タヌキにとって僕は大切な知識人なのだ
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連休は話しと酒で忙しくしていました。同世代の人は残り時間も似たようなものでその経験や知識を面白いものだと感じて過ごすのです。 その夜に読んだ関川夏央の「家族の昭和」のなかに…『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎「日本少国民文庫」昭和12年)を「哲学小説」ではなく、中学生たちの生活報告、あるいは「青春小説」として読んだ私が受取ったものは、「知識人」(大衆のなかの優れた部分)が、「あの人々」(愚昧で恵まれぬ大衆の大部分)を、嫌悪しつつ持ち上げる不思議さ、気持ちの悪さから発した違和感であったのだ、といまにして気づくのである。…を読んだとき僕の立ち位置というものがそれと同じだと気が付いた。知識などありゃしないのに背伸びして大衆とは違うといった意識に、それにしがみついているということに気が付いた。たぶんそういった感覚を無意識に感じている市井の知識人は多いのだろう。山にいる貧弱なおじさんということに目覚めつつ、少しでもいや、死ぬまで学び感じ考えることを続けなければならないと気が付いた。 雨で仕事が気になったが結局終日愚昧な大衆として仕事に立ち向かった。ふと見るとここにいる野良のタヌキが何かくれよと近づいて来た。僕は安心して知識人の立場でタヌキという大衆にエサを投げてやった。 雨は強い!
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