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最新の絵日記ダイジェスト
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2015/03/25(水) 30cっも積もった
 三日降り続いたことになる。積雪は30cmを超えている。出掛けに片付けてみると、とにかく重い雪だ。出られないようにも思うがとにかくがんばって雪を漕いで出る。あしたの夕方は大和じゃ!大和はまほろばじゃ!と麦秋と言う映画で聞いた。そこへ行くのじゃ。こんな時に雪の秋山に居ることはない。じゃ〜…

2015/03/24(火) 20cmは積もった
 雪は続いて20cmを超えただろうか。北陸から新潟の山間地で60cmと威かされたけれどまずこんなことでよかった。
 明日は飯山に用があって、済ましてから津南にでも泊めてもらおう。宿賃はおでんでも作ってみるか。
 ところで先日の地区総会の後ふとみると「罪のゆるしを得よ」という看板を見つけた。この冬に来た旧い友人が言うには、それは「聖書配布協力会」なる団体が宮城県丸森町にあって戦後の駐留軍の関係者が作ったものらしく今でもその協力会はあるというのだが、彼らが無作為に地方を回って看板の掲示を頼みあるときは無料で代金を要求されると少しの金品を置いて広げていったという。友人は時々都市でそんな旗をもってキリスト教を喧伝している人たちを見かけるという。そんな人に出会ったなら聞いてみるのもいいだろう。ただそんなことをしていたことも今の協力会の人たちには知らない人がいるようだ。だから『神』と言う字を分解して余分なところを消して『ネコ』を信じろと直された看板があっても何の文句も言わないということらしい。ISやオームのような教条的な団体ではないのだろうけれどどことなく命令口調で断定的でドキンとしてしまうのだが、今では田舎の象徴のようにも思える何となく笑える看板でもある。やはり「ネコを信じよ」なのだろう。

2015/03/23(月) 春のキャラバン
 予報通りに雪が降っていて、これはまだなごり雪というのではないなとぶるぶる肩をふるわせた。あした一日がまんすればまた天気が続くと予報が出ている。
 26日の飯山線の始発で森宮野原を出て長野から奈良へ向かう。翌日は山陰線松江に出る。木次線から芸備線で広島に出てからどうしよう。魚島は7月にでも取っておいて今年は岡山、直島を見てこよう。そこで西に帰る友人と別れて岐阜にでも出てみよう。僕は岐阜とは縁がなかったからよく知らないのだ。柳ヶ瀬で遊ぶにしては物を知らないし、関で刃物を買う若さはないし、しょうがないから名古屋一宮真清田神社へまわるか犬山のお城を見るか、そんなところだろう。遠く離れた友人と一年に一回それぞれ努力して会うのだ。一杯飲んで昔話をしていると面白いもので若かった時代のなかに座っていられる。
 

2015/03/22(日) 20回目の地区総会だった
 秋山屋敷地区の総会が行われる。ご他聞にもれずここでも高齢化が進み参加者が毎年少なくなっていく。
 ここに来て そう20年になる僕にしては20回目の地区総会だ。思えばこのところようやく地元の皆さんと打ち解けて心置きなく話が出来るようになった。20年の年月を過ぎなければ自分のあり方が出来なかったと言うのはひとえに努力が足りなかったと言うことに尽きるのだが、都会からこの山間の地に移り住むことの決着のつけ方の難しさが思われてならない。受け入れるものと捨てなければならないものの間でのかっとうを決着するのに僕の場合は20年を要したということになる。なんでも過ぎてしまえば笑い話だけれど何度となく逃げ出そうと思ったり、寂しさに泣いたことかと思うのである。それでも20回の地区総会を終えて地区の役割や役員の仕事などが分かるにつれてここの暮らしもそれはそれで面白いものだと思えるようになったのは、遅ればせだけれど成長したということなのかもしれない。
 この夏に作ろうとしている小さな小屋の布基礎を頼んでも来たし、もっきりや道の走行部分のコンクリート敷設も今年は出来そうである。20年とはそんな期間でもあると感じる。

2015/03/21(土) 今夜は思い出旅行だ
 金沢で学生時代を過ごしたお客さんというよりも友人と今、昔の旅の話を楽しんでいた。僕らの時代には新幹線もなかったから青函連絡船だとか急行「白山」とか信越本線とか北陸本線の話を楽しんだ。コンピューターもない時代だったけれど国鉄の職員はサービスはしなかったけれどよく鉄道のことは知っていた。そろばん勘定は下手だった国鉄はなくなってしまったけれど、勝手に遊べと鷹揚に許してくれた時代の旅が出来たことが僕らの財産である。お金を払いたくないというわけではないけれど旅は貧乏旅が身に付くと思っている僕にしては鈍行列車に揺られて青森や秋田へと走った夜の駅舎で駅長がかざす挙手の礼に守られた旅は絶品だった。
 当時上野からは常磐線経由で1本、東北本線経由で一本、奥羽本線経由で1本、羽越線経由もあったかもしれないが3本から4本の夜行鈍行列車が青森を目指していた。夜汽車の汽笛がその当時の人たちに与えた希望や夢が今のこの国を作ってきたのだとさえ僕は思うのだ。
 さっー1杯飲んで思い出旅行に行こう!

2015/03/20(金) 雪解けで水が濁る
 今日も仕事に出てしまった。この間の天気で雑魚川も魚野川も流木が流れ着いて取水口を埋めてしまった。せっせとそれを取り除き午後から除雪機での作業が続いた。
 これでこの冬の仕事は終了と言うことになる。3月としてはよく稼いだ。
 中津川は雪解けの増水で川がにごりだした。そのせいか川の苔が流されたようだ。
 福一さんの前から鳥甲山が大きく見えた。

2015/03/18(水) なだれの時期になる。
 昨日はここに来ている光ファイバーがなだれで切れたというのでテレビもPCも有線も使えなくなっていた。毎年のことで人家のない長野県内の林道に立てられた電線は設置場所が悪すぎることこの上ない。長野県の栄村だからといってなだれ地帯の配線は考え物だろう。いったん新潟県に入って405号に沿って引いてくればいいものを、何を考えているのだか!引きなおすと利用料が上がると行政は云うらしいのだがそれは始めの時点での判断ミスなのだから行政が住民を値上げだといって驚かすのは間違っていると思うのだ。
 そんなことはどうでもいいが昨日はよく晴れて屋敷から秋山林道に沿っての仕事だった。気温が上がったせいか鳥甲山ではガンガンガラガラと大きな雪崩の音が続いていた。
 今日は今日で秋山小学校の卒業式だ。卒業生一人、在校生二人という県下最小の学校だという。それでも来年度は存続するらしくその後は分校になるという。子供にとってもそのほうがいいのだと僕は思う。
 なお405号の夜間通行止めは解除になった。 
 写真は屋敷上から鳥甲山、烏帽子岳、笠帽子山を見たものです。   

2015/03/16(月) 春先のハイキングコース
 風呂が復活したので仕事を終えて帰ってから、ひとっ風呂浴びることが出来た。じいさんでもきれいになったように感じる。    切明から志賀に向かう道を一気に上がり、もっきりや分岐を過ぎて仕事が続いた。このところ支線掘りにも慣れて風もなく雪の上での昼飯もハイキング気分だった。志賀との分岐から電線を追ってもっきりやまで下って来た。このコースはこの時期の山遊びにはいいコースじゃないかなと思う。弁当を持たせてやるし切明まで送ってやるから天気のよい暖かな一日を遊んでみるのもいい。

2015/03/15(日) 地区の総会準備
 晴れて気温が上がった。といっても3℃ほどで風呂場の水は回復していないがそのうちにこれは戻るだろう。
 公民館の会計監査で屋敷集落に出て鑑査を受けてくる。雑談が面白い。気の小さな猟師の話や猟銃の管理の面倒くささや警察の手続きの厳しさ。これでは猟を続ける人がいなくなるといったことを聞いていた。
 小さな集落でも地区の事業予算や会計はなかなか大変で区長や副区長、会計は他の仕事もやりながらだからとても面倒なことのようだ。僕はここで生まれ育ったわけではないので、また地区から離れたところで暮らすので今になっても地区のことが完全には理解できないが、ここの住民として育った方々の地区への心遣いは大変なのだといつも感じる。だから僕は長と名のつく仕事はやらないことにしている。
 世の中は北陸新幹線と浮き立っているが僕にしては北陸本線と言う名前が消えたほうが余程気にかかる。JRという会社は取り返しのつかないレールの上を走っているように思われる。そんなに急いでどこへ行く である。

2015/03/14(土) 津南町について考える
 今朝も寒く玄関外の気温は−6℃。9時には日も差して気温も上がったようだが風呂場の水は凍ったままだ。
 津南町でドキュメンタリー映画「日本と原発」の上映会があった。この町は派手なショッピングセンターがあるわけではなく床屋と飲み屋の多い地方の小さな町だけれどきれいな女の人が多いと感じる。それに津南町は豪雪で泣いて、夏の暑さで苦しんでおまけに4年前の大地震でも新潟中部地震でも大きく揺れた町である。そこに暮らす人々はなんだか暢気でそんな境遇に参ることはないように見える。
 ゆりの産地だったり、ひまわり畑で人が集まったり、お米は日本一だったりいいところもたくさんあるが、今日のような社会性のある運動や活動にたくさんの町民がやってくるのも僕には不思議に感じられる。そりゃ会場が満員になることはないが津南雪祭りの当日にしては多くの町民が集まっていた。きっと企画をする方々の鷹揚さがいいのだろう。それもこれも毎年の雪の辛さがここの人間を大人に押し上げているのだろうと僕は感じた。
 こんな厳しい環境に暮らす暢気な人々がこれからもこのままで暮らし続けていくためにはやはり原発は要らないのだと感じていた。

3月絵日記の続き


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