来るなら来てみろ もっきりや
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2014年4月
前の月 次の月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新の絵日記ダイジェスト
2019/10/06 索道の手入れをした
2019/10/05 山が少し色づいた
2019/10/04 HP日記の改修に悩んでいる
2019/09/30 患者も湧く、カメムシも湧く
2019/09/29 昨日は商売繁多であった

直接移動: 201910 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201412 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201312 11 10 9 8 月 

2014/04/19(土) ネズミを殺すのも、熊を獲るのも
 曇りのままで気温も上がらずにうすら寒い日だ。おととい仕掛けた糠入り水バケツにきょうふたつのネズミが浮かんでいる。水を飲んで膨れていたがどうもいやなものだ。かといって縦横無尽に走り回るネズミを見るのもいやだし、健康にも悪いだろう。だからまた新たにそのバケツをセットしたがあんまりいい気分ではない。ネズミのことはネコに任せるのが一番なのだが。
 
 秋山郷の人たちが山の暮らしのなかで、どうやって収入を得て、子供たちを食べさせて行くのかは、金取り仕事の少なかった昔の秋山郷では、重要な課題だった。出稼ぎに出ても、当時はさして金にならなかったから、猟の上手な人に教えてもらって山に入る人が多かった。戦前には大陸に進出する人たちの外套や襟巻きにも使われ、当然、熊やケモノは減った。今では「カモシカ猟」も「バンドリ(むささび)猟」も禁止となり、熊猟の「穴熊(冬眠中の穴にいる熊)猟」は中止になって、四月から五月上旬の「出熊猟」が唯一残された、往時を偲ばせる狩となった。
 昔は、お金に変えるために滋賀高原の旅館に売ったという。また集落のなかでも欲しい人はいたという。「まぁ〜1頭獲って、胆の値段だが、熊が一六貫(60K)位あって胆が五十匁(187g)出て、平均70〜80万円位のものだったかな」それを猟をした人数で割るのだから、いまではそんなに良い商売ではないという。屋敷に暮らす山田由信さんは五十年以上猟をして百頭以上の熊を獲ったという。一年に二頭とすると、そんなに良い仕事でもないと分かるだろう。
 写真は1斗缶に蜂蜜を入れて夏場に害獣として獲った熊のものである。場所はすぐ下の川原だ。

2014/04/18(金) 終日雨。ネズミと遊ぶ。
 終日雨だったので、終日コタツに入って閉じこもっていた。いいだろう。このごろ室内には2匹のハツカネズミが入り込んで目の前を図々しく動き回っている。このネズミを飼っているわけではないけれども、彼らに対応しないでいると我が物顔に目先をゆっくりと移動していく。
 秋ネズミは家の出入り口に隠れていて、人が戸を開けるすきに入り込む。昨晩は食べ残して袋ごと丸めておいたピーナッツをやられた。
 しょうがないからバケツに水をいれ糠を浮かせたネズミ捕獲バケツをセットした。これは入ればおぼれて死んでいるから感情を揺すぶられないはずである。ペッタンコに掛かったネズミはどうも見たくない。さてどうなるか見てみよう。
 宇和島で高野長英が隠れ住んだ小さな家に寄ってみた。そこに座ってみると長英の前にもネズミがうろちょろしたのだろうと思った。長英はその後江戸の百人町で捕らえられ亡くなったが、妻のユキと子供はユキのヤクザな弟に預けられた。そしてその後ユキと子供は行方不明になったが娘のモトは11歳で吉原 稲本楼の遊女として売られた。その後吉原の大火でモトと思われる遊女が焼け死んだという。

2014/04/17(木) おとといの へちまの水も とらざりき 子規
 良い天気が続いて気持がいい。雪解けの水が増えた。
 きょうは階段脇の「雀鷹(つみ)」の部屋のふすまを張り替える。土産物コーナーに品物を出して、昨日に続いて布団を干した。
 松山の道後温泉の近くに市立子規記念博物館を見てきた。共に歩いた友人に僕は子規の最後の句として「おとといの へちまの水も とらざりき」を教えたのだが、本当にそうなのといぶかる友人に確認すべく聞いてみる。すると職員の方はその句を唱えることが出来なかった。松山といえば城と道後温泉と漱石と子規。その子規記念館の人が最後の句を知らないとは残念だった。
 9月の15日に松山ではへちまの水を採る慣わしがある。この句が書かれたのは18日。結核でカリエスになった子規は咳に効果があるとされていたへちまの水を薬として飲んでいた。危篤の子規にはもうへちまの水ではなんともしようが無かったのだろう。
 ちなみに「へちま」とは糸瓜と書くのだが、「いとうり」が「とうり」となまって、その頭文字「と」は、いろはにほへとちりぬる…の「へ」と「ち」の間にあるので「へちま」と呼ばれるようになったという。「糸瓜と 書いて何ゆえ へちまかな」

2014/04/16(水) 春の準備進む
 きょうも随分働きました。布団干しや洗濯、玄関の薪を片付け、トイレにエアを送って抜気もします。少し、いい臭いがしますがしょうがありません。明日はお土産コーナーに品物を出しましょう。あんまり多く出すと皆さん目もくれません。よく考えて品揃えします。
 中国勝山という町に立って、歩いていると昔造りの家並みの街道があります。何と言う街道だったか忘れてしまったけれどちょっと中途半端な感じの大きさだった。各家に創作暖簾が掛かっていたけれど僕は無いほうがいいと感じた。ひとつ、木挽きのくじら鋸のものが在った。
 ぶらぶら歩いているとやっているのかいないのか分からない古道具屋があった。好きだから入ってみると、出てきた年上のご婦人はさも亡くなった主人の忘れ物をもてあましているような商売をしていた。旅の途中だからそんなには買えないがそれでも面白く買ってきた。
 駅近くの食堂に入ると大阪出身の大柄なたこ入道のようなだんなが出てきて「関東の人!」と訊ねられる。東京とは言わないで関東というところに大阪人のプライドがあるのか。それでも「関東の言葉はよろしいな」と言う。ヨイショされたわけだ。いい気になって話していると若いご婦人が料理を持ってきた。バイトを使うほどの売り上げも無いだろうにと感じたのだが他人のことだと昼をかきこんでいると、そのたこ入道のような男が「女房」だという。えっ、まさかと思ったのだが、会話を聞いていると疑う余地は無かった。とたんに腹が膨れて食は進まなかった。今でもどうして?と理解は出来ないのだが…

2014/04/15(火) 通行止めの通知と古民家
 各地に日本の民家を移設展示した、民家園があるという。川崎の生田緑地にある「日本民家園」(?)は出かけたことがあるけれども大阪にある民家園には秋山郷上の原から移築した建屋が残っているという。屋根は茅葺で壁も茅で作ったものだという。
 宮城県の蔵王近くにある川崎町に国営みちのく杜の湖畔公園があり、そこにも「ふるさと村」という東北地方、六棟の古民家を移築した場所があるという。茅屋根の維持や管理など、なかなか大変だということだが古民家というものは見ているとなんだか心に響いてくるものがある。現在では茅屋根を見ることも本当に少なくなったが、一度大阪の民家園に行って秋山郷の古民家を見てこなければならない。これは宿題だ。来年のさくら行脚のときに寄らせてもらおうと決めた。そういえば大赤沢の石沢さんの家は5年ほど前に屋根を葺き替えた。これは昔の屋根を残しているのだろう。もう一度見せてもらう。小赤沢の保存民家も北側の茅を葺き替えた。でもまだ閉められている。保存のためにも早く風を入れないとよくないと研究者の方は話した。
  工事による夜間通行止めが4.21〜5.31まで行われる。
  午後10:30〜5:00の間
  毎週土曜日AM5:00〜月曜日PM10:30は通行可 
  GW期間は4.30〜5.3までは休工のようです
  問い合わせ先 025(757)5524

2014/04/14(月) 旧に復す
 風呂の給湯機からの温水は問題が解決されて使えるようになった。結局ボイラーに入る水のストレーナーの目詰まりだった。いろいろと調べたのだがそこだけは見逃していた。無理を言って来てもらった技師さんには頭が下がる。おかげできょうは久しぶりのお客さんを風呂へ入れることが出来た。
 そんなわけできょうはポストの設置だけだったがひとつ進んだ。池に水を張ったし、ふきのとうを摘んできて煮ることもやってみる。ようやく本来の「もっきりや」に戻れたようだ。願わくば客人が来てくれればいいのだ。がんばるか!

2014/04/13(日) 効果的に作業をやれば
 トイレの水問題を解決して気分がよくなった。それで池の掃除と玄関前のゴミを片付ける。目に見える作業は気持ちを楽にする。前進したような気分になる。気が重いと感じるときにはリズム感を保てるような作業を続けたほうが精神的にいい。毎年のことだがこの時期の憂鬱はこうして解決するしかない。でも毎年忘れてしまう。長い雪が終わる開放感は、残った重い雪の存在感に打ち負けてしまうのだ。春になったと感じてからひと月もしなければサクラは咲かないのだから。
 そうだ!明日は防腐剤を外壁に塗ろう。トイレにエアを送って抜気をしてふすまを1枚張り替えよう。それらを疲れたら変えながらやってみるのもいいだろう。それと岩魚を釣ってみよう。久しぶりに岩魚に餌をやるのもいいだろう。本当は釣りもうまい筈なのだから。

2014/04/12(土) 水周りはめんどくさい
 レンジャーズの試合を見ていた。なかなか働き出すチャンスがなくなってしまった。昼前にやっとトイレの付け替えを始めて通水をするのだが便器洗浄用の水シャワーが壊れていて水が噴出す。確認をするとプラスチックの部分がひびが入っている。もう一方のトイレの手洗いの蛇口も具合が悪い。車検の終わった車を取りに行きながら修理に向かうが合うゴムのリング状のパッキンは見つからなかった。水シャワーを交換するしかない。去年片付けるとき水が残っていて凍ってしまったようだ。きょうはもうやめて明日に回そう。
 ところでこの春の旅で泊まった宿は6300円から3600円でネットで探したホテルなのだが、もう一度駅前旅館に泊まってみたいと考えている。昔だが鞆の浦には「諸国旅人宿」という看板を掲げたおばあさんの経営する宿があった。北海道の小樽で泊まった宿はなんとなく連れ込み宿のようであったけれども洗面台には水甕があってそこから柄杓で取った水で顔を洗った。稚内の旅館では連れ込み宿ではないけれど主人は「きょうは露助が来るから」と各部屋に布団が敷かれていた。夕食のときは若い娘が給仕に来てなにか恥ずかしくて食べた気がしなかったことがあった。
 今のそういった旅館は経営者が年を取りすぎたかビジネスホテルに客を取られるので、しもた屋になっているのだろう。だんだん旅も味気なくなってきた。
 友人テレQ氏は東京12チャンネルで見た宇和島の「木屋旅館」という立派な旅籠を再建したポーランド人のご主人と話をしていた。
 もう少ししたらお遍路さんになって昔からの遍路宿というものに泊まってみたら少しは面白い体験ができるのかもしれない。

2014/04/11(金) 四国行脚2
 何もする気がなくなったようでぐたらぐたらしていた。それでも雪囲いを片付けた。風呂の給湯器を詰まらせているゴミを取り除こうと努めるが機械の中は基盤が立て込んでいて無理なのが分かった。コロナに対応を聞くと慣れていないのならやめたほうがいいとのご指示だった。でも明日はトイレの通水と便座の取替えを行ってからもっ一度やってみよう。あきらめていると気持ちが後ろ向きになる。
 さてどこまで書いたか、四国の予讃線今治駅で離れ離れになったテレQ氏の荷物すべてが僕のボックスに置かれていて、列車はひとつ上がって伊予富田駅に近づいていた。しょうがないどうしようと考えがまとまらないうちに荷物を二人分抱えて列車から降りることにした。「あなた今治に5分停まると言ったよね?」と運転手に聞くと彼は立ち上がって「そんなことは言ってません」と2回繰り返した。伊予富田のホームに立つと何にもない駅で、どうしようかと思い悩んでしまった。昔と違って旅をする機会が減っている僕は正直少し動揺していたようだ。残された駅で何も持っていないテレQ氏の不安を考えたといえばそうだが僕のほうが驚いていたのだ。そう思い悩んでいると下りの列車が入ってくるのが見えた。これだと跨線橋を駆け上がって飛び乗った。今治に下りてテレQ氏を探すのだが見つけ出せない。さて困ったとドキドキするくらい驚いた。うろうろしているとみどりの窓口から彼が何ということもなく出てきて「どうしたの乗っていればよかったのに。西条で追いつくのだから」と教えられた。
 おかげで今治ー西条間を特急列車で走ってみることができた。トイレがあるので水をがぶがぶ飲んで鯛めし弁当に食らいつきます。列車はまるで翼が出たように一気に乗り過ごした鈍行列車を捕まえることができた。ただ極まりが悪いので後ろのドアから肩を狭めて入っていくしかなかった。ここの乗客は伊予富田での僕の失態を見ていたのですから。終着で降りるときのことですがやはり18切符を持った初老の旅人が「乗れたのですか!」と肩をたたいて降りていきました。僕は彼と顔を見合せ「ブッチャケ!貧乏旅行は面白い」とトイレを探しながら笑うのです。

2014/04/10(木) ブッチャケ 金がないのだ!
 朝は予報と違ってきれいに晴れていた。飯山での用事を済ませて飯米を一袋取りに行ってから駐在に寄ってみたのだが不在だった。
津南での用事を済ませるといい雨が降り出していた。
 四国行脚 つづき
 ちょっとした勘違いで友人と別れ別れになってしまうことがあった。予讃線の今治でのことだ。その理由を簡単に話しておかなければならないだろう。
 四国の鉄道はそのほとんどが単線なのである。そこに上下1.5時間ごとに1本の特急列車が走る。その間を縫うように走る鈍行列車はまるでバスのようなものだ。だから追い抜かれたり、すれ違ったりが何回もおきる。おまけに鈍行列車にはトイレというものが置かれていない。トイレを気にする年齢になったせいか移動中は水分を控えることになる。18切符を利用する観光客は四国の鉄道会社にはいい迷惑なのだと感じざるをえなかった。みどりの窓口には多くの若者やサラリーマンが列を作っている。優等列車でなければどこにもいけないのが四国の鉄道だ。マッ、それはどこでも同じだが、ことに四国はそういうことだ。
 車掌に聞いてみた「単線での特急列車の運行は無理があるのでは、何で複線にしないのか」と。するとその車掌さんは腰の辺りで親指と人差し指で丸を作り「ブッチャケ 金がない!」とのたまわった。昔から四国の鉄道は遅れていたけれど改善されないまま民営化されてしまったのだろう。お遍路さんを大事に助ける四国の人たちだから怒りもしないで黙っている。人間の良さを感じた。
 「ブッチャケ!」という車掌の一言はなかなか面白くこの旅の間友人と何回となく使わせてもらった。またトイレ問題は車両が30分に一回は何分か停まる駅で済ませればいいのだと気づいた。
 そんな予讃線に乗っていて今度の今治では5分も停まるだろうと僕らは感じていた。今治という大きな駅ならばまず大丈夫と友人は駅弁を探しにホームに立った。そして階段を下りていく姿を見送っていた。しばらくしてドアの閉まる音がして1両の列車は動き出すではないか。あれ!あれ!と何が起きたか分からないうちにホームを抜ける後部の窓からホームに上がってくる友人の姿を視認した。
今治駅は高架になっていて上下ひとつづつのホームしかない。待避線がなかったのだ。ここで僕はなんとなくクスッと笑った。なんと言おうかと掛けた彼への電話が前の座席に置かれた荷物の中でかすかに震えていることに気づいたとき、その震えが僕に伝わってくるように感じたのだ…

4月絵日記の続き


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.