来るなら来てみろ もっきりや
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最新の絵日記ダイジェスト
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2013/08/31(土) フスマの張り替え
 亡くなった兄がよくこう言っていた。「自分で出来ないことはお金を使ってでも専門家を頼んでやるべきだ。いつまでもそこで立ち止まっているわけには行かないだろう。」僕にとって津南の大工さんはまさに、ここもっきりやの重要な援軍で何かにつけて相談して助けてもらっている。不器用な僕も何とか追っ付け仕事なら出来るがそれは人様に感心してもらえるような出来栄えではない。兄の言うように餅は餅屋ということなのです。
 今日は風呂場のスノコとその下の支柱を取替えてから客室(鷺の間)フスマの張り替えを手伝ってもらう。大工さんに張り替えはないのだけれどやってくれた。時間のかかる仕事でふたりでどうにか5時までには終えた。以前は佐野の友人と二人して深夜までかかったのだが。ひとりではきれいに張ることができない。難しいのだ。大工さんが帰ってから深く感謝しながら掃除を続けた。

2013/08/30(金) 背負子を一輪車に替えて
 奥山に荷物運びの手伝いはきょうも続いてエンクラ坂に運び上げた荷物を背負子から一輪車に載せ替えて運ぶ。荷の重さはそれでも40k〜50kだろうか。水平道だからできるのだがなかなか重い。それでも車の分速度は出て昼には渋沢の合流に着いた。仕事は荷揚げだからそれで仕舞いになる。帰りはゆっくりと歩いて帰った。
 昭和の工事で地元の人が運んだころは背中に背負っての30kで当時の人の体力では何の問題もなかったのだろう。その帰りに絶壁に立つ松に登って「佐渡おけさ」でも歌ってお酒を賭けようといった遊びをした余裕に近い気分で僕らも水平道を下ってきた。途中強い雨に打たれたとしても辛い荷揚げを終えた気楽さはいいものだった。少し遅れて歩いていると遇いたい友や鬼籍に入った親などを思い出してひとり話しながら濡れていた。

2013/08/29(木) 強力を思い出す
 もう40年以上も前の話で恐縮ですが、栃木県の奥鬼怒で仕事をしたことがあった。当時20歳ほどの子供だったのですが学校が閉鎖されて八丁の湯で働いていました。いい温泉の山小屋で当時は鈴木芳夫さんが切り盛りしていた。僕は厨房に入って食事の世話をしていたが夫婦淵まで荷物を取りによく出かけた。米を1袋30k醤油を1斗20kが荷揚げの限度だったがそのころの僕は途中のカッタテの滝あたりまで来ると重くて重くてとても担いでいられなくなった。そうなると醤油を道脇に隠して米だけをまず背負い上げ、取って返して醤油を運び上げたものだ。思うに50kは無理だと思えるのだが当時は90kの荷を背負い上げる地元の強力の影響もあったのかいつも頑張ったものだ。しかしいつも背負いきれなかった。疲れて座り込むともう立ち上がれなかった。地元の強力の名前ははっきりと思い出せないが頭のはるか上まである長い背負子を地に下ろすことなく背負って来たものである。1貫目いくらだったが、10kいくらだったかも忘れたが昭和40年代ころまではそんな強力はいくらでもいたようである。
 きょうはそんな荷上げを思い出させるような仕事だった。奥山での工事に使う荷物をひとり30kほどに振り分けて担ぎ上げた。普段の2倍ほどの時間がかかったが疲れたり目を足下から離すとぐらりと荷物が揺れ振り回されるようだった。

2013/08/28(水) 宿と仕事と畑とサル
 先日野菜をいただいた仕事仲間の方が言うには「もう野菜は終わりだ。きのうサルが来て全部食べていった」彼は面白くはないのだろうけれど淡々と話す。ここで畑をという人もいるが宿と仕事と畑とサルでは身が持たないと感じる。だから畑はもう少しあとにせざるを得ない。
 どこでもそうだろうがここでも気温がグッと下がって昼寝をしていても寒いと感じる。志賀から来たお客さんの云うのには志賀では気温は15度でバイクではつらいと話す。東京での一晩だったがあの暑さには閉口したが、このところの涼しさは冬を連想させるような気温の下がり方だ。もっと余裕のある季節の移ろいはないのだろうか。

2013/08/27(火) 被害を防ぐために
 明け方だったが強い雨の音に目が覚めた。またすぐに寝てしまったが外は5時だというのに暗かった。日が短くなった。このところの雨で川西街道が少しづつ傷ついてきた。長い直線の坂道に雨が降ると一気に水が来て(表流水)舗装されていない道は掘れてくる。U字溝のグレーチングもゴミがつかえて意味を失ってしまう。簡易舗装の切れるあたりに2ヶ所。横の土側溝に水を誘導する丸太でも入れるしかない。その下にも谷側に水を流す横断誘導溝を作る。そのあとで砕石を敷いてみるか、捨てコンを打つか。こんど見てもらおう。台風のシーズンになるのだし、やっておかなければならないだろう。まてよ!それともコンクリートでV字の溝を作るか。2mほどの幅で車が腹を擦らない程度であれば流れてくる水やゴミごと側溝に流せる。やるのならこれだろう。御普請組元組頭に相談してみよう。

2013/08/26(月) 仕事に出た。ひさしぶりなのだ。
 ソフトバンクの中継塔設置が順次はじまってこの分なら10月、まー雪が来るころには通じるようになるだろうと思える。ここはドコモしか使えないのだがそれもドコデモ使えるというわけにはゆかない。何時もいるところの床に置いていると圏外になる。そんなわけでどこでも使えるのならソフトバンクに替えるしかないと考えているのだ。こんなことをあたまに振るのは久しぶりの仕事で外に出るから分かるのだ。
 ラジオでも涼しくなったという。もちろんここでは長袖が必要になった。見ればカレンダーではもうすぐ9月になるのだから。
 去年ここにムッシューが放した鈴虫はいなくなってしまった。もっぱらキリギリスのチョン、チョンという鳴き声ばかりだ。
 2日間の東京で買ってきたDVDは「火の魚」「ニューヨク・ストーリー」「世界最速のインデアン」「仕立て屋の恋」まーそんなところだ。つまらない日記になったがとにかく元気なのだ。

2013/08/25(日) 帰って秋に震える
 東京と違ってここは秋の気配を通り越してすっかり秋の風で寒いと感じた。きっと東京もずい分と涼しくなったのだろうがここの場合はちょっと極端だ。
 この2日に強い雨が降ったようで側溝が土砂に埋まってしまった。これからの天気を思うと何時降りだすか分からないので片付ける。それに上水も汚れが出ているようでゴミ取りの部分を掃除した。ついでに便槽に空気を送って攪拌し抜気を作動させる。チョウの枡を開けて素焼きの鉢に布の覆いをかける。そう云えば先日まで水のなかった前の沢にも流れが出て夏から秋への変化が始まった。気温も朝に19度昼に23度、夕に20度。このままいくとは思わないがこの辺でどうか頼むと言いたい。
 ついでにネットで買ったTVの音響で4000円もしないのだがどうにか設置できた。これで冬の楽しみが増えるというものだ。
 先日、両親の墓参りのついでに向田邦子と吉田弦二郎の墓に行って来た。共にきれいな花が供えられていた。だから今日は「阿修羅のごとく」を読んでいる。

2013/08/24(土) 東京の暑さには負けた
 今月になって2度目のタイヤパンク。それも高速上でだった。それでも2回目でなれたもので15分で片付けたがあまりいいものではなかった。
 今回はお医者巡礼で二日にわたって医者を経巡った。実は緑内障の疑いがあると6月に云われての眼科が気になっていた。視力が落ちると失明と脅かされて目が見えないということは本も読めないし映像も見れないと考えてしまった。映像は目をつぶっても思い出せるが、本が読めないのには困ると思った。これから10年生きるにしてもそういった脅しはまずい。暮らしは魚島でも引きこもってしまえばどうにか慣れることも出来るが自分の感覚で読む世界は僕だけのものだと思うからだ。女の先生は視野もだいじょうぶだが右目がすこし白内障気味でちょっと変った感じだという。3ヶ月に一回は検査をしていればどうにかと話す。まずはよかった。ところで安心したせいか東京を歩くと実におおくの高齢者が動いている。元気のある高齢者は居酒屋にたむろして、背中が曲がった高齢者は病院で順番待ちだ。これではオリンピックが東京に来ても東京は元気にならないだろう。そしてこの暑さだ。よくこんな所で暮らしていると感心した。僕の東京の隠れ家は4畳半で冷房もなくサウナのような夜だった。だから巡礼が終わった今日2時に山に向って車に乗った。東京の人はみんな実に我慢強い。しょうがないと思っていてそれもみんな苦しんでいるのだからと観念しているのだろうか。僕の暮らしは我がままなのだろうか。

2013/08/21(水) 料理研究中
 明け方強い雨が何回となく降っては止みしていた。外気は20度で涼しく感じられた。その後雨は昼ごろにも一時強く降った。この分ではお医者巡礼に出てもいいよう気になった。行くかと思っている。
 週末からお客さんが続いて毎日もっきりやの夕食の準備をしている。ひとりとか二人、来ても三人なのだが今日は六人になった。これが大事な稼ぎになる。おろそかには出来ない。
 では何を作っているのかというとたいしたものは作らない。おなかがふくれればいいのだけど勉強のつもりで台所に立つ。
 先日いただいたモロッコマメを湯がいてしょうが醤油で和える。これはかんたん。湯がいたマメをゆっくり外気で冷やすのがこつ。ナスを味噌炒めにする。七味を振ってみるといい。これもかんたん。自分用のカレーも出す。痛むといけないから。先日買った惣菜のかき揚げ天もだす。これはチョウかんたん。味噌汁はジャガイモ玉ねぎ、もしくは豆腐、または若芽とおふ。
 きょうは六人なのでユウガオと揚げたナス、マメと油揚げの煮物。ひき肉のすこし入った汁で煮る。ユウガオは味がないので甘しょっぱい汁に油揚げを煮てだしをとってからにするとしみる。ユウガオのわたを湯がいてワサビ醤油で食べると刺身のようだ。なんとなく精進料理ぽくなったので鳥のから揚げをチンして出す。こんなのでどうだ。材料費などは大してかからない。ただ時間のかかる料理はここでは出さない。一泊二食三千円は時間の浪費を防ぐ僕の作戦だ。時にはレトルトカレーだってある。僕はそれでいいと思っている。

2013/08/20(火) 休みは続く
 もう少しふってもいいのだけれどひさしぶりのお湿りでいい感じだった。気温も下がっていまは作業着を着込んでいる。朝のうちに網戸を張り替えた。うまくいった。きょうの仕事はそれだけで予定のお客さんのためにカレーを作ってみた。ちょっと焦げたがそれも味のうちだ。
 昼に暖かい麺を食べて横になったらいびきをかいていてその音で目が覚めた。「風雲児…」あきて横になったらまたいびきをかいていた。こりゃ病気かもしれない。治しようはないが。教育TVをつけると高校水泳の放送が流れ早稲田実業の女生徒が400mリレーに出ていた。8チーム中6着だったけれど、あのむさ苦しかった早実で学ぶ女の子を現認した。きっと校内の便所もきれいになったのだろうと想像した。
 ところでここのところ新大学生を連れた家族が続いている。家族旅行には向いていないもっきりやではあるが新たなる傾向の構築になるのだろうか。家族連れは面倒でなくていい。
 池には上水のオバーフローが勢いよく流れ雨がお上品に降っている。

8月絵日記の続き


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