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2008/11/07(金) 社会福祉の歴史(日本編2)各科目共通ポイント
第2章 社会福祉の歴史・日本における社会福祉の史的展開2
1889(M28)、「聖ヒルダ養老院」が日本最初の養老院として設立された。

*1899(明治32)年、留岡幸助の家庭学校(教護活動)
 留岡幸助は、同志社神学校を卒業後,牧師を経て,北海道空知の集治監(監獄)教誨師となる。その際,幼年犯の処遇改良の必要性を感じ,1894年,アメリカのコンコルド感化監獄で研修。帰国後,1899年,東京巣鴨に私立の感化施設「巣鴨家庭学校」を創設。1914年,北海道遠軽に「北海道家庭学校」を創設。キリスト教精神に基づき「徳育、知育」といった教育を重んじ、農業や木工などの労働により人間形成を目指した。自然的環境の中に配置した15人以内の子どもと、両親の代替である男女のスタッフを置き、家庭的雰囲気を重視した施設経営が行なわれた。

*明治33年、貧民街に「二葉幼稚園」設立。

*明治44年、山室軍平『公娼全廃論』
◎山室軍平 (1872-1940) : 明治・大正・昭和初期の社会事業家。岡山県出身。同志社において神学を学び,1895年に日本救世軍に参加。以後,日本救世軍司令官,救世軍中将として救世軍の発展に尽力し,日本のキリスト教社会事業の開拓的役割を果たした。[主著] 『平民之福音』 1899

*1899年、滝乃川学園を石井亮一が創設した。
 石井亮一は、セガンの影響からこの学園において,精神薄弱児教育の父となった.



■用語解説:賀川豊彦  (1888-1960) 神戸市出身で,明治学院神学部予科・神戸神学校を卒業。その後,アメリカに学ぶ。
 1909年、キリスト教の伝道者として神戸新川の貧民街で伝道に努めるとともに,キリスト教社会事業家としてセツルメント活動を行う。また,労働組合,農民組合,生活協同組合運動などでも多彩な活躍をした。多数の著作があり,『死線を越えて』(1920)はベストセラーとなった。

*1899(明治32) 横山源之助『日本之下層社会』

●1899(明治32)行旅病人及び行旅死亡人取扱法制定(現行法)
 第一条 行旅病人ト称スルハ歩行ニ堪ヘサル行旅中ノ病人ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者ヲ謂ヒ行旅死亡人ト称スルハ行旅中死亡シ引取者ナキ者ヲ謂フ. 2 住所、居所若ハ氏名知レス且引取者ナキ死亡人ハ行旅死亡人ト看做ス.
 第二条 行旅病人ハ其ノ所在地市町村之ヲ救護スヘシ. 2 必要ノ場合ニ於テハ市町村ハ行旅病人ノ同伴者ニ対シテ亦相当ノ救護ヲ為スヘシ

●1900(明治33)精神病者監護法
 精神病者の公的な監禁を禁じたが、自宅の座敷牢などで「私宅監置」が認められていた.

*1903年、日本慈善同盟の結成。
 1908年には中央慈善協会となった。後には地方にも社会事業協会が創設され、わが国の社会事業の近代化、組織化に大きな役割を果たした。
 中央慈善協会の会則の「目的」には、内外の慈善救済事業の調査、慈善団体相互の連絡や,団体と慈善家との連絡を図ること,慈善事業を奨励し,行政を翼賛することが掲げられ、上からの組織化が前面にでていた。

*1908(明治 41)年、内務省は「第 1 回感化救済事業講習会」開催し、社会事業従事者教育の始まりとなった。36日間にわたり、25科目及び臨時講演140時間、受講300人弱。内容は、救済・感化事業を中心としつつ、都市農村改良から施設管理にまで及んだ。感化事業の処遇内容に重点がおかれた。

●1908明治41年、「済貧恤救は隣保相扶の情誼に依り互いに協救せしめ国費救助の濫給矯正方の件」を内務省は通達し、救助を制限した。明治41年には13090人がだった受給者が、明治42年には3753人に激減

*1909年、井上友一の『救済制度要義』が著される。「夫れ救貧は末にして防貧は本なり防貧は委にして風化は源なり」、つまり、救貧よりも防貧,防貧よりも教化が根本的であり、これを推進しようとした。井上は、階級分化の深刻化や「継承的貧民」の形成前に、「良民」=独立自営の勤労国民となることを奨励する方向を最良と考え、救貧を排したのである。
井上の「経恤的行政及法制」とは、(1)救貧は「人民相互の情誼」を傷つけ、独立自助心を破壊する背徳の途と考えた。「公利公益」、共同体の隣保相扶を重視した。(2)エルバーフェルト制度等の救済取締り制度を導入した。風化制度とは、普通教育以外の風気の善導であり、児童救済・勤倹勧奨・庶民教化を井上は挙げている。それは、社会改良よりも精神的要素の救済が重要と考えた。また、風化事業は階級調和のみならず国運の発展に期するところがあるとした。

*明治44年、下谷・浅草,明治45年・大正元年に本所・深川・大阪などで細民調査を内務省地方局が実施した.日本の科学的貧困調査のはじまりであった。
明治45年「細民戸別調査記入心得」によれば、細民と称するのは、細民地域に居住する者、人力車牽き等の都市雑業に従事する者、家賃三円以内の家屋の居住者、世帯主の収入月額20円以内の者と規定していた。

*明治44年、「浄土宗労働共済会」創立。深川における防貧事業とセツルメントであり、創立者の渡辺海旭は仏教慈善事業の開拓者であり、サンスクリットの世界的学者であった。ドイツ留学から帰国後、ドイツ「労働者の家」の影響によって事業を開始。
渡辺の理念として、相互扶助的発想、仏教有機体説に基づく「慈悲の平等性」を挙げることが出来る。渡辺は、仏教の報恩思想による差別感克服や、社会的救済を為すための人類相愛と防貧を論じた。(『慈善事業の要義』明治44年)渡辺の思想の基本は、共済=相互扶助=相互報恩と、人格=「一切衆生悉有仏性」観にたっている。
*明治45年、渡辺を中心に「仏教徒社会事業研究会」を創立。

*明治45年、生江孝之『欧米視察 細民と救済』。近代的社会連帯思想を論じた。
* 大正2年、原胤昭『出獄人保護』が著された。
*大正2年、大阪救済事業研究会設立、機関誌『救済研究』発刊。


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