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2008/11/16(日)
必要になったときには遅いんだよ…大概
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今日はまた熱っぽくて、あまり調子が良くなかったです。微妙に体ふらついてたような……でもまぁ、バイトも何とかこなしています。さて、これからは原稿やらにゃ……先週は風邪で思ったように進まなかったんで、今週勝負かけます。
アジアシリーズ、西武優勝〜。 出来ればTVで見たかった。つか、あんまし注目されて無かったみたいね。中国はともかく、韓国が予選落ちして笑った。それも含めて、スポンサーやら観客動員数やら、まるで茶番やね。WBCも似たようなもんかね?とりあえず、どっちも審判の質を上げてちゃんと競技しようや。
馬。 アタシは競馬ってやってないんですけど、今日のレースで本命が落馬したというニュースをあちこちで聞いた。空馬がそのまま一着になり、ちょうどその後ろを救急車が走ってる映像見て吹いた。シュールすぎる。何にしても、馬も騎手も大きな怪我はなかったみたいで何より。
国語の必要性。 こんな記事があった。http://news.ameba.jp/special/2008/11/20514.html 別に国語に限らず、その勉強の必要性って、大人になって必要になったときにしか本当の理解はできないんだよね。
一つには言葉の意味を知らないと、相互理解に支障をきたすから、というものだろう。 あとは、小説なり随筆なりを読んで本当に自分だけで理解できるか、また他の見方はないか。文法やその時代背景の不理解から誤解・誤謬はないだろうかなど、やはり他人から教わることは必要だと思う。その説明に納得するしないは各個人の意見として重要だが、作品の理解、作者の理解というのはいろんな物の見方を知る上でも必要だと思う。現代文ならともかく、古文や漢文をまったく誰にも教わらずに理解できる人なんていないだろう。昔の人がどのような文化を持って現代に伝えてきたのかは、歴史や風土を学ぶ上でも知っておいて損はない。 国語を学ぶ上で何より重要なのは、他者や多文化など自分とは異なる部分を理解し、相手を知ろうと努力するところではないかと私は思う。化学や数学とは違い、文字や文章、作品には必ずその後ろに「人」がいるのである。 ただ、そうは言ってもこればっかりは本人が関心を持って勉強しなければそれこそ大した意味はない。もちろん、それはほかの教科でも大差ないが。興味を持って勉強した奴だけに判る答えかもしれんね。
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