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2013/01/20 「八重の桜」を見るのがつらい。

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2013/01/31(木) 結局「何を優先するか」という話。
古い装束にかなり詳しいと思われる方からの、大河ドラマ「平清盛」に関する(主に装束面への)かなり辛口の指摘がありました。

「今は亡き大河のための遠吠え(主に装束への) 」
http://togetter.com/li/447832 

で、思ったんですが、確かにこの方はすごく知識が豊富だし、ここまで詳しい方が言うならそうなんだろう、と。

一方で、ドラマの出来を云々するにあたって、そこが本質的な問題かと言われると、そうでもないよなあと思います。「ドラマ上ではこうだったけど、本当はこうあるべき」という絵は確かにとてもきれいだし上手い。でも、「だから、どうしろと?」という気もするのです。現実には予算が無限に湧いてくるわけではない以上、やるべきことに優先順位をつけて取捨選択していくしかないでしょう。

もちろん、自分が好きなことに関してはこだわりたいし、「ここは譲れない、手抜きしてほしくない」というポイントは誰にでもあると思いますが、装束好きの要望や雅楽好きの要望や甲冑好きの要望……をぜーんぶかなえるなんて、できません。そうできれば理想なんでしょうけど、そこまで要求してもなあ…という気がするのです。

だってそんなことを言い出したら、当時の言葉遣いがドラマで再現されることなど全く期待できない日本語スキーはどうすればいいのかと。

そういう指摘をしてもいいなら、私は「平清盛」で「おじゃる」という言葉は使ってほしくなかったですよ。あれは室町時代にできた言い方なので、平安時代の人が知っているはずはありません。しかも実際に使われていた室町時代には、「おじゃる」は別に貴族の専売特許でもなんでもなく、貴賤・男女問わず広く使われていました。それを院政期のドラマの中で貴族だけに使わせるということは、「おじゃる」を貴族の記号にしていたということなんですが、それ「おじゃる丸」レベルの認識じゃないですか?と言いたくなりました。あと、たまに「ござる」も使ってましたね。これも室町時代の成立です。

でも。それを言い出したら「です」「ます」は使えないし、「ござりまする」も江戸時代の成立だからダメ、さらに新しい「ございます」などもってのほか、多用されていた「じゃ」もアウト、というわけで、「候ふ」や「はべり」や「こそ已然形」を使って話さなければ!ハ行もファ行で言わなければ!ということになってしまいます。……そこまで徹底してみたって、(マニアは喜ぶのかもしれませんが)普通の視聴者にはなんのこっちゃだし、ドラマのストーリー展開の方が大事。

いや言語を徹底する必要はないけど装束は徹底してほしいんだ、なぜなら装束の手抜きは院政期という時代への理解の浅さの表れだからなんだという見方に関しては、何とも言えません。いや、だって私、院政期人じゃないですから。あの作品が院政期の時代の精神を掴んでいたかということについては、院政期の人間ではないので判断はつきません。(結局は、現代人がつくって現代人が見てるものですから、ドラマって。)

たぶんですけど、このツイートをされた方と制作陣(特に人物デザイン監修)では、目指しているものが違うんでしょうね。制作側は、衣装を性格や立ち位置、内面的な変化の表現として使うことに決め、それを有職故実よりも優先するという判断をした。その判断に基づいて衣装を決めた。それだけのことであって、手抜きしているという感覚はなかったと思います。

……と思うところを書いてみましたが、なんだかんだで「平清盛」寄りのコメントになってしまうのは、私個人が感覚の一番基本的な部分でこの作品を「好き」なんだろうと思います。理屈でなく、直感的に。一方、この作品に対して批判的なコメントに終始する人というのは、感覚の一番基本的な所でこのドラマが「嫌い」なのでしょうね。これはもう各人の好みなのでどうしようもない。

それにしてもTLを眺めていると、昨年12/23の放送終了から1ヶ月以上たつのに「『平清盛』はああだった、こうだった、ここが良かった、いや良くなかった」というツイートをよく見かけるので、何だかんだであれはcontroversialな作品だったのだなあと、よく分からない感慨を覚えることであるよ(詠嘆)。

2013/01/20(日) 「八重の桜」を見るのがつらい。
タイトルどおりです。

 1、2話を見た段階ではさほどそうは思わなかったんですが、3話を見て「つらい」ということが私の中でほぼ確定になってしまいました。

 これは過去の大河ドラマと比べてどうこうという話では全くなく、かつ、実在の新島八重とも関係なくて、「八重の桜」における八重(演:綾瀬はるか)を見るのがつらいということなのです。と言うのも彼女は、

・砲術という、女性は普通やらないとされていることをやっている上、
・女性が普通やるべきとされる機織りや裁縫は下手。

にもかかわらず、出会う人ほぼ全員(特に男性)から好かれていて、誰からも嫌われていない。なぜなら天真爛漫な天然ガールだから。

 ずるいです、これは。「誰からも好かれる」というあの愛され素質の高さは努力して手に入るものではないというのに、それを初めっから持っているというのが反則。その素質があると、「人に好かれよう」という努力を一切しなくても周り中から好かれるんです。そういう人を見るのは、その素質がない人間にとっては非常につらい。

 実際、作中での八重は「男性に好かれよう」という努力(女らしく振舞うなど)は一切していないにも関わらず、幼馴染にも惚れられているし、会ったばかりの尚之助にも、早くも憎からず思われているのです。

 これ、すごく不公平じゃないのでしょうか。八重のような「女らしさ」の型にはまろうとしない規格外の女性が男性に好かれるのであれば、銃を撃とうなんて思いもよらない、真面目に花嫁修業をする女の子たちは一体どうすればいいのですか。平凡な、いわば「規格内」の娘達にとっては、何とも割の合わない設定ではないかと思うのです。

 現時点での綾瀬八重を見る心境と言うのは、「大して勉強せずにテストを受けて赤点を取りながら、解答用紙に描いた絵が面白いという理由で合格点をもらった天才型の生徒を見つめる、平均点の生徒の心境」とでもいえばいいのでしょうか……。

 はい、分かってます。私、暗いです。ねたんでます。自分にない「天性の何か」を持っている人を見るのは、つらいのです。

2013/01/14(月) 八重の桜を見て。
 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」。昨日が第2話の放送でして、本役の綾瀬はるかが登場しました。八重の周囲にいる男性陣もカッコいい。

……のですが、

 何なんでしょうね、この「来週も見ようという気がなぜか起こってこない」感じ。1話は(おそらく、制作側も気合を入れて作っていたと思しくて)若者たちのキラキラした青春グラフィティみたいな感じがあって、好感持ったのです。が、何かこう2話の、予定調和的な印象。なんとなく想像がついてしまう感じとでも言えばいいのかなあ。

 例えば2話の鳥を撃つ場面、「銃は殺生の道具」だと山本パパが示したのですが、あれね、パパが「どいてろ」と言った時点で、このあとどういう発言が出てくるかが大体分かっちゃったのです。「銃はオモチャじゃない、命を奪う武器だ」的なことを言うんだろうなー、と思ったら、あー、やっぱり言ったね、みたいな。(※ノベライズは読んでません。)

 もちろん、よく出来てるドラマだと思うので、あえてあげつらわなければならないような重大な「抜け」や「穴」があるわけではないのですが、まさにその点に物足りなさを感じる、とでも言えばいいのかな。きれいにまとまりすぎていて、どこも外していないことへの物足りなさというか。「ちょ、お前、そう来るのかよ!」みたいな驚き、予想していなかった物が飛び出てくるような意外性がない気がするのです。

 もちろん、まだ2話しか見ていないので判断するのは早計。今後どういう見せ方になってくるかは、まだまだ分かりません。

 そういえば、私が「八重の桜」に関して否定的なことをツイートすると「清盛原理主義者」「虫唾が走る」などとお叱りを受けまして、確かに良くなかったなと反省しました。が、その後TLを眺めていると、「八重の桜」を高評価するのに「平清盛」を引き合いに出して腐す御仁が目立ちます。「八重」を褒めたいというよりも、とにかく「清盛」を叩きたいのではないかと感じるほどです。ある行為を他人には「やるな」「虫唾が走る」などと制止しておきながら、自分に対しては同じ行為を許していいのなら、こんなに楽なことはありません。何か納得の行かない思いです。

2013/01/07(月) 更新情報&メルフォお礼。
・このページに3回目まで掲載していた小説ですが、サイト内のコンテンツとして続けていくことにしました。「へいけものがたりがたり」内、「海を渡った平家物語」のページの一番下にリンクを張りましたので、よかったらお付き合いください。タイトルは「ハビアン小譚」(仮題)です。小譚、と聞いて某合唱曲を思い出した人は私と気が合うと思います。

・富山弁のコーナーに「いくそる」という動詞を収録してあるのですが、射水市の方からメールフォームで「『いくそる』使います」と情報提供を頂きました。やはり県西部で使われているということのようです。ご連絡ありがとうございました!

2013/01/03(木) タイトル未定のまま(3)。
3本目。

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 ハビアンがロレンソの姿を再び目にしたのは、イエズス会総協議会の開催を翌日に控えた8月12日だった。他の修道士たちと一緒に、杖をついたロレンソが歩いて来るのを目に留めると、ハビアンはすぐに駆け寄った。
「もし!」
 息を弾ませた声に呼ばれて、ロレンソは足を止めた。
「ロレンソ殿ではござらぬか。ハビアンにござる」
 その顔に疑問の色が浮かんだのを見て、ハビアンは我に返る。
(馬鹿か、身共は。7年前に会うただけでは忘れてもおかしゅうない)
「あの、ええと…。昔、上京の市で説法をお聞きしてござる。ま一度お会いしたいと思うておりまらした」
 おお、さようか、とロレンソが目を細めたとき、コスメの声がした。
「ハビアン殿ー!ヴィジタドールがお呼びにござるぞ!」
 名前を呼ばれ、慌てて返事をする。
「今参る!ロレンソ殿、ではこれにて。慌ただしゅうて申し訳ござらぬ」
 やっとロレンソに会えた。ハビアンは高揚していたが、あの上京の市で琵琶を弾じていたロレンソの精気のようなものが、なぜか感じられなかったことが心に引っかかった。
(あんなに腰が曲がっておられたろうか)
 振り返って見たロレンソは、なんだか小さく見えた。

 コスメに呼ばれて初めて会ったアレッサンドロ・ヴァリニャーノは大柄な男だった。それでいて優しげな目をしていて、威圧感はない。このとき53歳であり、ハビアンから見ると親ほどの年齢と言っても差し支えない。助手か何かなのか、隣に若い宣教師がいた。
「初めてお目にかかります。イルマン・ハビアンです」
「上(カミ)のハビアンだね?コスメから聞いたが、コレジオでは優秀な成績だそうだね。会議では忌憚のない意見を頼むよ」
 ロレンソのような古参のイルマンはともかく、自分やコスメのような若いイルマンまでがなぜ会議に招集されたのか、ハビアンはまだ測りかねていたが、とりあえずは ”Sim” (はい)と答えておくしかない。
「ああ、それからこちらは、パードレ・バレトだ。ポルトガル出身で、使節団の帰国に同行して日本に来られた」
「マヌエル・バレトです。日本のことはまだ何も分からないので、よろしく」
 紹介されたパードレが、ハビアン、コスメそれぞれと握手を交わす。”Muito prazer, padre” とハビアンが言い、コスメも緊張気味に「プラゼール、パードレ」と繰り返した。
「君達は20代かな。マンショやミゲル達よりは年かさのようだ」
「はい、26歳です」
 バレトが目を丸くする。
「おや、じゃあ僕と1つしか変わらないね。僕は27歳だ。東洋人は若く見えるから、年が分からないな。1つ違いなら遠慮は無用だ、いろいろ気軽に話してくれ。パードレ・ヴァリニャーノには話しにくいこともあるだろう?」
「こら、一言多いよ、マヌエル」
 ヴァリニャーノが困った顔をすると、バレトは屈託なく笑った。
「冗談ですよ、パードレ。ともかくハビアン、コスメ、また話そう。ぜひ日本語も教えてくれ」
 寝室を見に行くと言って立ち去ったバレトを、ヴァリニャーノはやれやれといった顔で見送った。
「どうもパードレ・バレトは口数が多くてね。日本語と一緒に日本人の落ち着きも学んでくれないかと思うよ」
「気さくな方で、私は好きです」
コスメの言葉に、ヴァリニャーノの表情が和らいだ。
「それなら良かった。今は坂口の小さな家に寝起きしていてね。ドン・バルトロメオの奥方の屋敷があるんだが、その近くにある家臣の家を借りて、ちょっとした日本語学校にするつもりだ。君達もコレジオでの勉強があるとは思うが、空いたときには顔を出してくれ」
 そう言うとヴァリニャーノは、他のパードレと話し始めた。
「ハビアン殿、『顔を出してくれ』というのは」
「日本語の教師をせい、ということにおりゃるかのう」
 2人は顔を見合わせた。

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順調に(?)登場人物が増えてます。大丈夫かこれ。

ドン・バルトロメオは大村純忠で、この話の時点でもう亡くなってるので、「奥方」は未亡人です。

2013/01/02(水) タイトル未定のまま
↓1回目をUPして気付いたのですが、タイトルが付いてないのですね、この話。うん、決めてません。いいタイトル浮かばないんだもん…(T_T)


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 ハビアンがその男に会ったのは、7年前。まだ恵春(えしゅん)と名乗る禅僧だったときだ。所用で上京の市に出掛けると、ちょっとした人だかりができていた。顔の前に扇をかざし、骨の間から見ている者も何人かいる。人だかりの中心にいるのは、琵琶を弾じる男だった。
(なんじゃ、琵琶法師か。珍しいものでもあるまいに、よほどの上手か)
ちらりと見て通り過ぎるつもりで一瞥すると、見慣れない飾りがその男の首に下げられているのに気が付いた。
(キリシタンの検校とは)
 南蛮から伝来したキリシタンの教えが、じわじわと信徒を増やしつつあるのは時折耳にしていた。都ではまだそれほど信徒は多くないとも聞くが、仏教の寺院を意識してか、数年前に洛中に南蛮寺が建った。クルスとか言う、長短二本の棒を交わらせた紋を拝むのだという。目の前の検校の胸で、撥が動くたびにきらり、きらりと光るのが、そのクルスとやらであるらしかった。
 しかし恵春は、キリシタンの教えがどんなものかは知らなかった。禅寺では「仏の教えを否定しておる」という者もあれば、「いや、あれは仏法の一派に過ぎぬ、天竺から来た者どもじゃほどに」と言う者もあり、なんだかよく分からないことになっていた。
(この者は何を語りおる)
 18歳の恵春は、純粋に知りたいと思った。人の群れをかき分けて前に出た。
「『いかに心こはき汝、さりとてはイドロスを拝み、この苦しみを逃れよ』と」
 両目を閉じた法師が語り、琵琶の弦が重苦しく鳴る。
「ビルゼンのたまはく、『その芳言は情けには似たれども、かへりて我には情けなし』」
 意味の分からない言葉もあるが、声色は男の語りから女のそれに変わったようだった。弦の音がすすり泣くように聞こえた。
「今まで我、赤の裸になり、諸人に恥をさらし、打擲を受けたるも何ゆえぞ。我がつまゼズスに離れ奉るまじきがためなり」
 撥の動きが速くなる。もう女は泣いていない。決然と顔を上げていた。
「たとひ天魔波旬は新たに現前して障りをなすとも――」
 法師の声と琵琶の音が、空気を揺るがせて心臓まで響いてくるのが分かった。
「甘露のゼズスと我が中をば、裂け奉ることかなふべからず」

 群れ集まっていた人々がほとんどいなくなって初めて、恵春はその場に立ち尽くしていたことに気付いた。
 杖をついて立ち上がった法師に駆け寄った。直感が恵春を動かしていた。
「もし、検校の坊。今のお話、感銘いたいた。まちっと聞きとうござる」
法師が声の主に顔を向けた。
「…そなた、」
「今の説法を聞いておりまらした。恵春と申す者にござる」
「雪じゃの」
「え?」
「そなた、雪を背負うておる」
 それきり何も言わずに法師は琵琶を背中に担ぎ、杖をついて歩き出した。
 恵春は加賀の生まれである。雪深いところだが、当人にその記憶はない。両親は早くに、自分を連れて京に上ったからだ。恵春は親からの口伝てでしか、故郷を知らなかった。
(なぜわかった)
 小さくなっていく法師の姿を、恵春は呆然と見送った。

 この日のことが頭から離れなかった恵春は、程なくして南蛮寺を訪ね、宣教師から洗礼を受けてFabianという名を与えられた。禅寺でそれなりの教養を身につけていたのを見込まれて、高槻のセミナリオに入学した。

 あの日出くわした法師は、ロレンソ了斎なる元・琵琶法師にして修道士(イルマン)だと後に知ったが、ロレンソは大名家などで説教するのに忙しいのか、再び話す機会は訪れなかった。そのうちハビアンは21歳で豊後臼杵の修練院(ノビシアド)に入った。イルマンとしてイエズス会入会を許されたのだ。さらに学問と霊的修練を深めていこうと決意を固めていた矢先、関白秀吉が伴天連追放令を発した。

2013/01/01(火) 新年に小説書き始めた。
 明けましておめでとうございます。2013年もよろしくお願いいたします。


 非常に唐突なのですが、昨日あたりから思い立って小説を書き始めました。16世紀末の日本イエズス会がネタです。書けたら不定期にUPしていきます。ちょこちょこ手直しはあると思います。ちなみに今の時点で、どういう結末になるかという見通しは全く立っていません…(いいのかそんなんで)。



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 イエズス会総会長の名代として来日した巡察師(ヴィジタドール)ヴァリニャーノが、欧州における日本への関心を高めるため、また年若い日本人に欧州の進んだ文物を見せるため、4人の少年を使節に立てて日本を発ったのは、1582年2月20日のことである。

 そのわずか4ヶ月後、イエズス会を厚遇していた織田信長が落命。代わって権力を握った羽柴秀吉は当初、キリスト教布教を容認していた。しかし1587年6月、突如として「伴天連(バテレン)追放令」を出し、キリスト教を「邪法」と公言した。

 使節団はこの報に、ローマからの帰国の途上で接した。状況を見定めるため、一行は帰国を延ばしてマカオに滞留。再び日本の地を踏んだのは、1590年7月であった。

 ◇

 今後の日本イエズス会の活動方針を決めるため、ここ肥前加津佐の学院(コレジオ)で協議会を開く――とヴァリニャーノが指示してきたので、学生達は準備に追われていた。参加する司祭(パードレ)や修道士(イルマン)は合計32人になり、何日間もかかる見通しだそうだ。会議に使う大部屋に机を運び込むやら、パードレがたの寝室を用意するやら、みな忙しく立ち働いていた。

「ハビアン殿、ちと休みまらしょうず」
水の入った椀を差し出したのは、イルマンの高井コスメである。
「かたじけない」
ハビアンは軽く礼を言い、喉を潤した。一口飲んで椀を返すと、コスメも水を喉に流し込む。喉仏が大きく上下した。
「ハビアン殿はパードレ・ヴァリニャーノを見知ってござるか」
額から顎の先へ流れ落ちる汗を拭いながら、コスメが尋ねた。
「いや、存ぜぬ。身共が洗礼(バウチズモ)を受けた時分には、既に日本を発たせられておりゃったほどに」
「さようにござったか。しかし、いかなるお方でござろうのう。日本人も談合(だんこう)に加われとは。身がパードレ衆の前で物申すなど、思いもよらなんだわ」
コスメは冗談めかして笑った。
「まあ、日本人の考えを聞かいでは、日本での伝道は続け難しとお考えなのではおりないか」
伝道のう、とコスメはため息交じりにつぶやいた。
「教えを広めるどころか、キリシタンはむしろ減っておるのではござないか。追放令よりこちら、コレジオも修練院(ノビシアド)も転々としてばかりで、ちとも気の休まる暇(いとま)がござない。この先どうなることやらと、目の前が暗うなりまらする」
「なんじゃ、気弱じゃのう。コスメ殿、今度見えらるる日本人イルマンの中にはの、もう四十年も伝道をお続けの方もあると聞いておりゃるぞ。その方々から話を聞けば、励みになることもあろうず」
「ハビアン殿、何やらうれし気にござるの」
不思議そうな顔をしたコスメに、なかなか、とだけ答えて、ハビアンは仕事に戻った。


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