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2012/09/29(土)
北大のレポート指南で考えたこと
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「レポートは感想文とは違います」「顔文字を使ってはいけません」「チラシの裏を使ってはいけません」など、微に入り細に入り学生に教えている北海道大学のページがたまたま目にとまったのでツイッターで紹介したら、1000以上もRTされて驚いています。
いくつかリプライを頂いた中に、「顔文字を使っても、チラシの裏でも、(いま話題のABC予想を解明してしまうくらいの)ハイレベルなレポートを書く学生もいるかもしれない」というものが複数ありました。
こういうリプライを見て、私は考え込んでしまいました。それは否定はできないのです。世間一般で言う「優等生」の枠をぶち破ってしまうような、「一見すると奇人変人だが実は天才」という学生はごくまれにいるのかもしれません。
でも、九割九分はそうではないだろうとも思います。私も含めて、ほとんどの人間は平凡です。レポートであれ何であれ、「この通りにやりなさい」という「型」(あるいはマニュアル)を与えられないことには、及第点に達する水準のものを作ることはできません。レポート作成で言えば、「A4用紙で余白はこれくらい、一枚の字数はこれくらいにして、引用の仕方はこう、参考文献のリストアップはこう」と教わって初めて書くことができます。「こうやるのがスタンダードだよ、これに従えば間違いないよ」という「型」が全くない状態で、自らが持つ創造力だけで何かを一から作り上げ、しかも出来上がったものが、「型」を守っていないことがどうでもよくなるくらいの高評価――という人が、一体どれだけいるのでしょうか。
私はこの頃、「人間ってそんなに個性的だろうか」と思うようになっています。「個性を伸ばそう」「ナンバーワンよりオンリーワン」「みんな違ってみんないい」などと言われても、よほどの奇才でない限り、決められた「型」なしでは大したことのできない人がほとんどなのではないかと。もちろん人間はみんな違いますし、考えていることも十人十色ですが、「ありあまる才能」や、「それだけで食べていけるくらいの個性」があるかと言われれば、そんなものはない。ないから、過去の誰かが作った「型」を身につけて、とりあえず合格点レベルのパフォーマンスを出せるようにするしかないのです。
常識破りの天才がいないとは思わないのですが、ほとんどの人は平均点のちょっと上からちょっと下くらいの範囲に集まっているのですから、「普通のことを普通にできる」ように訓練することが、教育される側にとっては最も有益なのではないでしょうか。最近は何かと「個性」「オリジナリティ」と言われますが、実は大半の人間にそんな際立った個性はない上に、強い個性を要求する仕事は世の中にそんなに多くはなく、むしろ「決められたことを決められた通りにできば、務まる」という仕事の方が多いように思います。個性はあればあったでいいけど、ないとダメというものでもない、オプションみたいなものです。むしろ必要なのは、「この通りにやれば間違いない」という「型」が身についていることなのだよな。――と、北大のページを見ていて思ったのでした。
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