日記 & 更新情報
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2012年12月
前の月 次の月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
最新の絵日記ダイジェスト
2013/02/24 更新情報
2013/02/17 うわああー。
2013/02/09 徒然なるままに
2013/01/31 結局「何を優先するか」という話。
2013/01/20 「八重の桜」を見るのがつらい。

直接移動: 20132 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 5 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 8 7 6 5 4 3 月 

2012/12/31(月) 大つごもりのご挨拶
大河ドラマに心躍った2012年も、はや最後の1日。
先日ツイッターで書いたご挨拶を転載して、今年の締めくくりとしたいと思います。

------------------------------------

そういえば当アカウントは、「平清盛」のスタートに合わせて、昨年の末に開設したのでした。

それまでは(今でもそうなのかもしれませんが)院政期〜源平期というのはマイナーで、サイトの掲示板やメールフォームなんかで、この時代が好きだという人が声を掛けてくれることなんて、私の実感では半年に1度あるかないかという感じでした。

それがドラマが始まると、院政期や源平が好きだという人、歴史に詳しい人、創作をやっている人、時代小説をすごく読んでいる人など、本当にいろんな人と趣味の話ができて、すごく楽しかったですし、勉強にもなりました。

この1年、ツイッターでお話しさせていただいた方、日記を読んで下さった方、本当にありがとうございました。

以後このアカウント (Heike_gatari) は、いち平家ファンが趣味の話をつぶやくアカウントとなります。大河ドラマ「平清盛」についてつぶやくことは、あるとは思いますが頻度は大きく減ると思います。

それでもフォローして下さる方は、引き続きよろしくお願いいたします。それじゃつまらないという方には、リムーブをお勧めいたします。またどこかで袖すり合う日まで、お元気で。(・ω・)ノ

------------------------------------

では皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

    寒さに身も凍る12月31日、Natsu拝

2012/12/29(土) 「平清盛」第50回「遊びをせんとや生まれけむ」
大河ドラマ「平清盛」も、ついに最終回。

なのですが、実はこの回に関して書きたいことはそんなに多くありません。終盤のヤマである「清盛の夢のバトンタッチ」はもう済んでしまっているので、後は清盛が死ぬだけです。

個人的に印象深かったのは2カ所。

・西行の「清盛の一生は美しかった」発言
 西行は登場当初から、「美」を追求する人として書かれていました。その彼が清盛の生きざまを「美しかった」と評したのは良かったですね。彼は清盛の若いときも、中年くらいの最も乗りに乗っていた辺りも、年老いて狂気が前面に出るようになってからも全部見ていて、それらを全部ひっくるめて「美しい」と言っている。子供のような無邪気さが、きらきらと眩しかった、みたいな感じでしょうか。西行は早くに世を捨てたので、清盛とは対照的な人生だと思いますが、にもかかわらず分かり合っているというのがグッと来ます。

・清盛が一門の面々に遺言を伝える。
 イタコじゃあるまいし、西行を便利に使いすぎだろ!みたいなツッコミをしようと思えばいくらでもできます。が、

松ケン清盛が話し始めるや、んなことはどうでもよくなります。

思えば、清盛は平家一門の人々に対して、常に「棟梁」として接していました。重盛に対しても「父」じゃなかったり、経盛や教盛に対しても「兄」じゃなかったり。だからこんなに穏やかな表情で語りかけているのが新鮮。特に、徳子を「もののふ」と称えたところは泣けました!徳子(建礼門院)は自己主張をしない人というイメージが強く、ともすると「意志が弱い」「周囲に流されるだけ」とされ、現代ではあまり評価が高くない女性だと思います。その彼女をこうやってきっちり評したのは、すごくうれしかったです。

その後はもう、怒涛の駆け足展開。壇ノ浦やって、腰越状やって、弁慶が立ち往生して、頼朝が上洛して。

で、エンドロールですよ。

ちょっと何これ反則。

竜宮城じゃないですか。平家の皆さん勢揃いじゃないですか。重盛がいるじゃないですか。平家一門がたどってきた道のりを思い出してまた泣きそうになってしまったではないですかー!

それにしてもラストの映像、海がきれいでした。国と国とを媒介して、人や物を運び、出会わせる海を清盛は愛し、そして平家一門は海に消えていった…切ない。

内容的にかなり詰め込んだという感じはあるものの、しっかり感動的な場面もあり、納得できる締めくくりになっていたと思います。大河ドラマを全話見たのはこの作品が初めてです。第1回のスタート以来、1年間楽しませてくれた制作陣、俳優陣に「ありがとう」と「お疲れ様」を。

さて、最終回まで終わりましたので、全体を振り返っての感想を書いて、終わりにします。

そもそもこのドラマは、悪役のイメージが強い清盛が「先見の明があり、大きな夢を抱いていた大人物だと示す」ということが目的で、もう一つは「清盛の青年時代を描く」ということでした。平家物語では、最初の時点でもう清盛が年を取っていて、若いときの姿はあまり知られていないので、これも彼が悪役に見える一因なのです。

で、この二つの目的は達成されていたのかというと、前者は70点、後者は40点くらいではないでしょうか。

まず「清盛の大きな夢」ですが、これは貿易の場面がかなりあったので良かったと思います。同時に「清盛の考えは先進的すぎた」という描写もあるので、貴族や寺社から反感を買ったというのも分かる作りになっていました。

残念だったのは、清盛が「新しい世」を作ろうとしていた動機を、母を殺した実父・白河院への復讐という、極めて私的なものに落としてしまった点。もちろん、前にも書いたように、血のつながりよりも精神的つながりの方が強いという提示は私は嫌いではないのです。安易な親子愛や兄弟愛賛美なんかより余程奥が深いと思います。しかし一方で、人物が「つねに極私的な動機でしか行動しない」ように見えてしまうので、諸刃の剣のような気もします。

二つ目の「清盛の青年時代」ですが、青年時代の清盛は正直、描こうにも事績がありません。派手な海賊退治の場面以外は、個性的な人物がうごめく朝廷パートのインパクトで持っており、平家パートはときどき挟まれて、ドロッドロの朝廷パートの休憩時間みたいになっていた、というのが実際のところでした。

その結果、前半(保元・平治の乱まで)は個性的なキャラクターが視聴者を引き付け、キャラの魅力で持っていた面がかなり大きかったと思います。鳥羽院、崇徳院、頼長、信西などはかなり人気が高かったのではないでしょうか。

そして保元・平治の乱で彼らの大半が退場してからは、必然的に苦しくなり、大きな合戦もなかった秋ごろはやや失速気味でした。そんな中、平治の乱後から存在感が出てきたのは重盛と、その義兄の成親。さらに、彼と並ぶ院近臣の西光。彼らがクローズアップされた鹿ケ谷事件とその前後が、後半の一つのピークだったかなと。

じゃあその後は見所はなかったのかと言うと、松ケン清盛の老人演技がインパクト大でした。彼が清盛を、その死まで演じると聞いたとき、不安の方が大きかったです。20代でそんなことができるわけがない、不自然になるだけだと思いました。ところが実際には、かなり手の込んだ老けメイク。そしてそれ以上に、どう見ても老人にしか見えない身のこなし、表情、話し方。ここまでできる人だとは思いもしなくて、これにはもう「参りました」です。

いろいろと書きましたが、今年は上記のような「穴」は少なからずありながら、「今までにないドラマを作る」という意気込みを強く感じましたし、それを1年かけてやり切ったのはすごいことだと思います。音楽も素晴らしかったし、衣装も映像も私のツボで、ストーリーと同じくらい、視覚的にも魅力の尽きないドラマでした。繰り返しになりますが、一年間本当に楽しかったです。制作に携わった方々、ありがとうございました。

2012/12/28(金) 「平清盛」第49回「双六が終わるとき」
あと2回で終わりますので、物語は終結へとひた走って行きます。

この回は治承5(1181)年の正月から始まりますが、清盛が死ぬのがこの年の閏2月ですので、死ぬ前の2カ月くらいの話です。

まずは1月、高倉上皇(21)が死去。上皇が笛を吹こうとするけれど、息が弱って音が出ない…というシーン、ほろっときました。

上皇の死に伴って院政を行う人物が必要になったので、後白河上皇(55)が幽閉を解かれ、再び政治の場に出てきます。ここで清盛が徳子(25)を、後白河院の後宮に入れようとしたというのは実話。かつて滋子が後白河院と清盛の仲介役となり、両者が良好な関係を保っていたのを再現しようとしたのかもしれませんが、それは別に徳子じゃなくてもいいはずなんですよね。別の女性でも。なのに徳子を選んでしまうあたり、老化に加え、平家が危機に直面していた焦りで清盛の判断力が鈍っていたのではないかと想像されます。

源氏パートでは、梶原景時が頼朝(35)の家人に加わります。すっかり東国武士たちの信頼を集めている頼朝を見つめる、北条時政(44)の温かい目がいいですね。前にも書きましたが、この人は場面によって目つきが全然違います。ほんと遠藤さん、名優だわ。

よく見たら、藤九郎(安達盛長)の髪はかなり白髪交じりなんですね。この人は一体何歳なんでしょうか。頼朝が廃人モードだったときは、20代後半〜30代くらいに見えましたが…と思って調べてみると、1135年生まれだそうなので、このとき47歳(数え年)ということになります。47歳なら白髪も…

え、47歳!?

時政より年上じゃん!!

ひいいー。「時政40代、藤九郎30代(=頼朝と同世代)」くらいの認識でしたわ。まあ、ストーリーには影響しないことではありますが。

そして今回かなり、驚きのシーン。

堀河局です。

歌会のシーンで久しぶりに上西門院様が(なぜかこの人は様づけで呼びたい)見られて「わー久しぶりー!」と思ったのですが、
そんなことで喜んでいる場合ではなかった。

りょうさん、凄いです。老婆です。真っ白な髪はもちろん、眉はないわ、顔はしわしわだわ。ドラマ上とはいえ、女優さんをあそこまで老けさせることはめったにないと思います。貴重な絵ですね。

待賢門院堀河は生没年不詳なのですが、仮に待賢門院(1101〜1145)と同世代とすると、このとき80歳前後。西行との年の差をもう少し縮めて、10歳くらい年上と考えると70代なかば、という感じです。

その堀河局を誘惑する西行(64)。

全然変わってないなこいつ。袖の中に手を入れるだけなのに、この場面がやたらとエロいです。

で、唐突に藤原俊成が参加している上西門院の歌会とか、堀河局と西行の色っぽい場面がなぜここに挿入されているかというと、彼ら彼女らは「貴族の世の最後の輝き」だからなのですね。季節は冬、雪が降っています。雪が解けて春が来れば、新しい何かが、眠りから覚めた虫が土から出るように動き出し、躍動し始める。春は「始まり」であり、すなわち冬は「終わり」です。平安の世が終わり、春――新しい世――がすぐそこまで来ていることの暗示です。

再び源氏パートでは、義経や弁慶に、鎌倉の街づくりの計画を話す頼朝。その計画が西行から清盛に伝わります(西行は一体どんな情報網を持ってるんだ)。かつて自分が福原でやろうとした都づくりと重なる清盛。自分がやろうとしていたことが、頼朝に受け継がれているわけです。が、バトンが渡るというのは寂しいことでもある。次の走者にバトンを渡してしまった以上、主役はもう自分ではないということです。この日本を動かす渦の中心はもう、自分から頼朝に移ってしまっていました。

清盛が持っていた「貿易」と「武士の世」というバトンはそれぞれ小兎丸と頼朝に渡されたのですが、まだ決着がついていなかったのが後白河院。初めて清盛の方から双六勝負を持ちかけ、そしておそらく初めて、腹の探り合いばかりをしていた2人が本音で話をします。本音で話をするということは、どちらももう「戦闘モード」ではないということなんですよね。穏やかな顔になってるし。ああ、この物語はもう終わるのだなあ、と寂しくなりました。後白河院ももう、清盛を挑発するようなギラギラした目をしていません。

そしていよいよラスト、清盛が高熱を出します。遂に熱病きたー!

と思ったら、

伊勢は二見が浦の西行の庵に、清盛現る。

幽体離脱かい。

どこへ行く、清盛!

2012/12/27(木) ひさびさ日記
ツイッター上での話なのですが、ツイッターだと長い文章は分断されて誤解が生じやすいのでこちらに。

来年の大河ドラマ「八重の桜」が、「主人公が常に正しい、道徳の教科書みたいなドラマになりそう。什の掟なんか、まさにそんな感じがする」という内容のことをつぶやくと、「清盛ファンの僻み根性」とエアリプで言われてしまいまして、え、これは「僻み」に認定されるのかとこちらがびっくりしました。ほかにも「清盛ロス」(ペットロスのドラマバージョンということらしい)とか。

確かに、上記の私のつぶやきは「平清盛」がたびたび「欲の肯定」というテーマを提示したことを引き合いに出しての発言だったので、「始まってもないドラマを僻み根性で叩いてる」と言われても仕方ないと思います。すみません。

が、「平清盛」を好意的に視聴していた人(私含め)が、「八重の桜」に関して批判的なことを少しでも言おうものならすべて「清盛ファンの僻み根性」に認定されてしまうのは納得できません。そんな風に取られるのなら、何も言えなくなります。

あと、新島八重がドラマ化されようがされまいが、「什の掟」は私は好きではありません。子供向けの建前であって、大人が大真面目に掲げるようなものではないと思っています…が、それをつぶやいたらこれまた(別の方からですが)「清盛原理主義者」「虫唾が走る」と言われて、おいおい、と。これに関しては、私が清盛が好きかどうかは関係なく投稿したツイートですし、ドラマ「八重の桜」ではなく「什の掟」を個人的にどう思うかを表明したまでです。

しかし現実には、「平清盛」ファンだと(プロフィールやツイートから)判断される人物が、ドラマ「八重の桜」はもちろん、会津にまつわるものに関して少しでも否定的な発言をすると「清盛原理主義者」の「僻み根性」と罵倒されるようです。どうも私は、「八重の桜」に関しては何も言わない方がいいのでしょうね。見ない方がいいかもしれませんね、一切。

それにしても、「清盛ファン」とか「清盛原理主義者」などと言われていますが、私は別に「平清盛」からこの時代に入ったわけではなくて、もともと平家物語ファンだと自分では思っているのですが…。日記での各回感想では、つまらなかった点については批判も書いているつもりです。

とはいえ、ツイッター上でやりとりしている人がみんなこの日記を読んでくれているわけではないですから、そこまで見ずに「こいつは原理主義者だ」と決めつけられることもあるのだなあ、と改めて思いました。それが分かっただけでも、収穫だということにしておくしかないようです。

2012/12/22(土) 「平清盛」第48回「幻の都」
今回の演出は中野亮平さんという、初めて名前を目にする方。助監督で、今回チャンスを与えられたそうです。

で、この回ですが。

久方ぶりの清盛空間大爆発

いや、前半はいいんです。清盛が一門の面々から都還りを懇願され、自身の夢の結晶だった福原京を去る決意をする。あるじがいなくなった福原の清盛邸は塵あくたが吹き込み、がらんどうの夢の抜け殻と化す。空っぽの福原の映像がそのまま、空っぽになった清盛の心の描写になる。しかし小兎丸をはじめとする海賊一味は福原に残ることを決め、清盛から小兎丸へ「夢のバトンタッチ」が行われることで、清盛の理想は決して潰えていないことを提示。五節の舞姫が朗詠する漢詩も今回のストーリーにぴったり合っていて、こみ上げてくるものがありました。

が。

問題は源氏パートです。

清盛は「貿易」と「武士の世」という二つのバトンを持っていて、最初の一本は小兎丸に渡しました。もう一本を渡す相手は、源頼朝です。

それをエア矢で済ませるか。

いや、鳥羽院のエア矢回はインパクトあったと思うし、それがここに繋がってたのか!という驚きはありましたけども。頼朝が初めて武士政権を作ったのではない、頼朝に先行してそれを試したパイオニアが清盛で、頼朝はそれを改良したんだ、と言いたいのも分かるんですけども。

いや、でも、でもさあ。

というわけで今回は「平家パートは感動的だったのに源氏パートは・・・」

ってな感じでした。


あ、今週の重衡はすごく良かったと思います。明るくて無邪気で前向きで。高橋先生の「陽性」っていう表現が私はとてもしっくり来ているんですが、辻本重衡はまさにそんな感じじゃないかと。「そうそう、重衡ってこういうキャラなんだよ!」と思うんですよね。辻本君を配したのが成功している場面でした。

2012/12/21(金) 「平清盛」第47回「宿命の敗北」
引き続き治承4(1180)年。この翌年にはもう清盛が死んでしまうので、展開がゆっくりになっています。

石橋山の戦い&義経が奥州を出る

富士川の合戦で平家敗走

義経、頼朝と対面

を35分でやり、「富士川の敗北が平家にとって何を意味したか」、もっと言うと「このドラマでは富士川の敗北をどう解釈するか」を残りの10分で見せるという構成です。つまりドラマが視聴者に見せたいのはラスト10分なので、その前の35分は壮大な前段と考えた方がいい。その点では前回の「頼朝挙兵」も、ほぼ同じ作り方です。

本作のほかの史実描写にも割と当てはまると思うのですが、実際にあった出来事を描くにあたって「出来事そのもの」よりも、「その出来事が当事者たちにとって何を意味したか、当事者たちがどう受け止めたか」にウエイトを置いていますよね。だから合戦シーンの描写は短時間で終わってしまったりするのだと思います。このやり方は、下手をすると「ある出来事の解釈を登場人物が長々と語る」場面ばかりになってしまうので、活劇を見たい人には物足りないと思います。(本作の保元の乱は悪い例。戦場で武将たちがべらべら喋ってばかりいて、青年の主張コンクール状態になってました)

話が逸れました。

平家はもはや武士ではなくなった、権力を握る過程で変質してしまったのだと訴える忠清。平家という水を入れるのに、清盛は新しいコップをつくらずに、すでに「貴族」という水が入っている、以前からあるコップを使おうと思った。そのコップから貴族という水を出し、平家という水で満たして行ったのですが、そのコップにうまく入るには平家は変わらざるを得なかったのですね。

もう平家に自分の居場所はないと感じている忠清は、首をはねてくれと清盛に頼みます。清盛はそれを受けて宋剣を抜きますが、剣の重みで後ろにひっくり返ってしまい、しかも剣が錆びていました。

私は前回、清盛は宋剣にすがったのは「武士の面を取り戻した証」と書いたのですが、そんなに甘くなかった!藤本先生はもっと酷だった!自分が武士だと思いだしたときには、もう手遅れだったのです。ふ、藤本先生、鬼や…。・゜・(ノД`)・゜・。

2012/12/20(木) 「平清盛」第46回「頼朝挙兵」
この辺りもう、見るのがつらいですね。平家が坂を転げ落ちていくくだりなので。

前回からの続きで治承4(1180)年。以仁王の令旨を受け取った伊豆の頼朝(34)が、挙兵を決意します。頼朝を奮起させる時政(43)の鋭い目つきにご注目。農業を楽しんでいた朴訥なおじさんは世を忍ぶ仮の姿だったに違いありません。別人格としか考えようのない、ギラギラした目になっています。短い場面ですが、ここの遠藤さんの目がすごくいい!

福原では、前回登場した仏御前を可愛がっている清盛。祇王・祇女姉妹は出ていってしまいます。

その清盛(63)が上洛。頼政(77)が六波羅に呼び出され、すでに以仁王(30)につくと決めていた頼政はひやひやします。清盛はそんなことは知らないので、福原京の設計図を頼政に見せて上機嫌。「義朝と共に目指した武士の世」が実現すると語ります。

義朝はそんなことまで考えていなかったと思うけどね。

私のイメージですが、義朝は武勇だけの人なんで、長期的に国がどうあるべきか、みたいな大きなビジョンはなかったと思います。痛かったのは、清盛には大きなビジョンがあるけれど、他の人にはないという事実を清盛が分かってなかったことかもしれないですね。自分が抱いている展望は他の人にも見えていて共有されていると清盛は考えているのですが、実際には共有されてないのです。

で、なんで上洛したかと言うと、病床にあった知盛(29)を見舞いに来たのでした。知盛は人気の人物なので、創作作品では「病弱」という暗い面はなかなか描かれにくい。このドラマは貴重だと思います。(だから05年「義経」で知盛に阿部寛がキャスティングされ、当然の成り行きとしてガチの武人キャラにされたのは違和感が大ありでした。ミスキャストにも程があるというものです。)

福原に帰った清盛に、「以仁王が平家打倒の令旨を出した」という知らせが伝わります。平家にばれたと分かり、大津にある園城寺(三井寺)に逃れる以仁王。ここから頼政父子の絶命まで、わりとあっさりと描写してしまいました。頼政の辞世の歌が登場しなかったのは残念。

六月、清盛は福原への遷都を強行。止めようとする頼盛(49)に向かって怒る清盛の表情、すごい迫力でした。清盛は基本的に寛大で人望のある人だったんですが、晩年になると感情が前面に出るようになって、キレやすくなってたんじゃないかなという気がします。平家への反感が高まっているのは感じていたので、焦りもあったと思います。

で、ここからの15分。夜の福原の場面です。

すごかったですねこれ。舞台かと思いました。なんも言えねえー。

念願の福原遷都を実現したのに、誰もついて来てくれず、人心は離れていく。その孤独と苛立ちで、清盛はどんどん態度を硬化させていくのですが、本当は寂しいんだよなあ。だから、暗闇なのですね。

そこへ忠清が、頼朝が挙兵したと告げに来ます。それを聞いた清盛は、戦うスピリットを取り戻した!自分が何者か思い出した!

清盛には実の父(白河院)と育ての父(忠盛)という2人の父がいて、後者の象徴が忠盛からもらった宋剣。これは清盛の中の、武士の部分を象徴するものでもあります。ここまでの清盛は白河院化が進んでいて、母・舞子のように仏御前を殺そうとしさえしたのですが、すんでのところで宋剣に戻ってくる。清盛の父は忠盛という描写です。

つまり、「血のつながり」は絶対的なものではないという提示なのですね。「血がすべて」という遺伝至上主義の否定です。

白河院の影から逃れ出た(と思われる)清盛が、最後までどう突っ走ってくれるのか、楽しみです!

2012/12/16(日) 「型」のちからの前で
うちで取っている新聞に、NHKドラマ番組部の屋敷陽太郎氏(「篤姫」や「江」のプロデューサーを務めた人)が月1回くらいのペースで文章を書いています。今回は中村勘三郎さんの思い出。ちょっと興味深かったので転載します。

---------------------------------------------------------

2012年12月16日付北日本新聞、屋敷陽太郎「天上の娯楽」17「『様式美』で怒声飛ぶ 革新し続けた勘三郎」

 「様式美だとっ。何言ってやがんだ、バカ野郎!」

 中村勘三郎に、激しく叱られたことがある。勘三郎(当時、勘九郎)が主演を務めたNHK大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年)。私は、一番下っ端の助監督として1年間参加した。

 配属が決まった日、上司であるチーフ・プロデューサーから最初の命令が下された。

 「勘九郎は、酒好きだ。きっと毎晩のように現場スタッフと呑む。お前は全て付き合え」

 飲み会での話題は、サラリーマンも有名俳優も全く同じ。仕事の愚痴。それしかない。

 私は、スパイを命じられたのだ。脚本内容や監督の演出手法について、主役が本音ではどう思っているのか。トラブルの火種はないか。あれば、こじれる前にこっそり報告しろ、というわけだ。

 ドラマのスタジオ撮影は、朝8時から支度が始まり、深夜の12時から1時ごろに終了する。上司の予想通り、勘九郎は、スタジオ裏手にある掘っ立て小屋のような狭い汚いスペースで、セットに使う木箱を椅子代わりにして毎晩呑んだ。メンバーは、衣装やカツラの担当者、撮影クルー、若手共演者。監督たち(監督は複数いる)やプロデューサーは来ない。勘九郎は、立場の上下や有名無名を問わず、誰にも等しく接した。毎晩(というか明け方まで)、わいわいがやがやと、その日の撮影を振り返りながら呑んだ。私も、毎晩呑んだ。

 激しい議論になることも多々。ある監督の撮影方法が型にはまっている、と勘九郎が不満を抱いたことがあった。それに対して私が、「大河ドラマは様式美の世界。だから、それでいいんじゃないか」と反論した。冒頭のように激しく怒鳴られたのが、その時。

 まさに様式美の世界である歌舞伎界で生まれ育ち、その世界を先頭に立って革新し続けてきた勘九郎。大河は様式美でいいと肯定した私の保守性が、彼にとっては許し難かったに違いない。以来、「様式美でいいと、お前は本心で思っているのか」と、何度も議論をふっかけられた。

 数週間後、その監督の作品が完成した。「悔しいけど、あの監督の仕上がりは凄くいいよねえ」と、勘九郎はしみじみとつぶやきながら酒を呑んだ。撮影手法に大きなわだかまりがあったにもかかわらず、出来上がりの良し悪しを冷静に判断した勘九郎を、私は素直に尊敬した。スパイ業務は忘れ、私は毎晩楽しく呑んだ。

 あれから十数年。幾本かの大河を担当した。賛否両論激しく対立した今年の「平清盛」についても、担当ではなかったものの、考えるところが多くあった。勘九郎に問われた、様式美と革新性。それは、大河がずっと背負ってきた課題であり使命だ。様式美を守るだけでは大河に未来はない。そのことが、今の私にはよく分かる。自らの力で常に変化し、過去を壊し続けなければ進化はない。チャレンジ精神の先にこそ、新しい伝統は築かれていく。

 今では、撮影後に俳優やスタッフが呑むこともなくなった。部下にスパイを命じる必要もない。時代が変わったということだろう。しかし、酒は呑まずとも、今度は私が後輩たちを叱り付けねばならない順番が来た。

 「様式美だとっ、バカ野郎!」

--------------------------------------------------

 勘三郎(当時は勘九郎)さんの言うこと、わかるわ〜なんて書くとおこがましいですが、分からなくはありません。私も「いかにもな時代劇」というか、「時代劇時代劇した時代劇」が苦手なので(うまく表現できなくてすみません)。

 とくに扮装の面でそれを強く感じます。例えば武将はみんな、毛筆で書いて跳ね上げたような堂々たる「武将眉毛」だったり、かつらの揉み上げが耳たぶの辺りまであったり…。女優さんも全かつらで、生え際がやたらときれいな富士額の人ばっかりだとか。実際にはあり得ないのに。だからここ数年、半かつらが広くつかわれるようになったのが私はすごくうれしいです。あれだと、揉み上げや生え際は本人の「自前」のものなので、とても自然になります。

 で、勘三郎さん。様式美の手法をとる監督を批判しながらも「仕上がりは凄くいいよねえ」と褒めたといいます。それもそのはずで、様式美というのは無数の先人が試行錯誤を繰り返して磨き上げてきた「芸の型」ですから、その型にきっちりと乗っ取ってやれば、間違いなくうまくいくのです。それは認める。しかし様式を守って良いものができたことに満足してはいけないんだ、新しいことをやっていかなくては、と勘三郎さんは考えていたのではないでしょうか。そこには常に、「様式通りに手堅くやればうまくいく」という甘い誘惑がある。革新者はその誘惑を振り切って、新しいことをやらなくてはならないのです。「凄くいいよねえ」という言葉は、「様式の持つ圧倒的な力を分かった上で、何をしなければならないか」という、いわば「革新者の苦悩」の現れだったのではないか、と感じます。

 様式美がダメだというわけではない。ただ勘三郎さんが受け入れ難かったのは、当時の屋敷さんの「それ“で”いい」という、既成の型に安住しようとする姿勢だったのではないでしょうか。(今の屋敷さんがどうかは知りません。直接知っているわけでもないですし。「江」は途中で脱落しましたが、「篤姫」は最後まで見てまして、面白いドラマだったと思います。)

2012/12/01(土) 更新情報
久しぶりに、平家関連のコンテンツをUPしました。

「へいけものがたりがたり」内「『平家』雑想」に、

・異本の迷宮
・海を渡った平家物語

の2本をUPしています。「このコンテンツの参考文献」は、解説書を追加。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.