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2012/11/26(月)
歴史小説の手法
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時代物の小説では、「いかにも史実に基づいているように見せる書き方」というのがあります。
たとえば遠藤周作「沈黙」(1966年)。冒頭、ポルトガルにある「海外領土史研究所」なる施設に、江戸時代に日本に渡った宣教師セバスチアン・ロドリゴの手紙が保管されていると述べ、その手紙を紹介するという形で物語が始まります。
が、そんな研究所は存在しないし、ロドリゴも(ジュゼッペ・キアラという実在の宣教師をモデルとしてはいるものの)架空の人物でして、この仕掛けそのものがフィクションです。
よく似た手法を芥川龍之介も使っています。「奉教人の死」(1918年)は、キリシタンの若者「ろおらん」を主人公とした小説ですが、物語の最後に「この話はイエズス会が長崎で出版した『れげんだ・おうれあ』という書物から引いた」と書き、さらにその本には「御出世以来千五百九十六年、慶長元年三月上旬鏤刻(るこく)也」と書いてあるとか、上下二巻、各60ページで美濃紙が使われているとか、実に具体的に述べています。が、そんな本は存在しないのでして、芥川は実に巧みに嘘をついたわけです。
この作品について、当時キリシタン文学を精力的に研究していた新村出(1876〜1967。のちに「広辞苑」をつくった国語学者)は「慶長改元は十二月であるから、元年三月としたのは作者の粗漏であらう」と指摘。一般読者を惑わせるような出まかせを書くなんて、けしからん、と言うのかと思いきや、
「そこをもっと巧みに繕って、題名などももうすこし考案をこらして和様につけて見たら尚面白かつたことであらう。原名にしてもレゲンダ・オゥレア(Legenda Aurea)はまづい。どうしても『れぜんだ・あうれや』と読ませる方がまことらしく見えてよかつたものをと思ふ。ロオランもあそこはロレンソと云ふべきである」
と、より事実談らしくなるようにアドバイスしているのですから、懐が深いというか、粋な計らいというか。
芥川はこの助言を入れたため、現在青空文庫で読める「奉教人の死」では、書名「れげんだ・おうれあ」はそのままですが、年は「慶長二年」、主人公の名前は「ろおれんぞ」と修正されています。
こういう仕掛けは読者からすると、紛らわしいものではあるし、その分野をよく知らなければ事実だと信じてしまう人もいるのかもしれません。実際、「れげんだ・おうれあ」が実在の書だと信じる人がたくさんいたそうです。それは芥川の巧みな語りが成功したというもので、新村先生の「諸家の遺したこの逸話こそ後世却て珍書界のレゼンダ・アウレアとなるであらう」という評に尽きます。これはこれで、創作の手法の一つなのです。
歴史の研究書に作り話が書いてあったら大変ですが、作家は歴史家ではないですし、創作は自由でないと面白くないですから。遠藤周作の「沈黙」を読んで感動して、最後のページに「以上述べたことは全部嘘であります」なんて書いてあったら、興ざめですよね。
参照:新村出全集第六巻(筑摩書房)
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