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2012/11/19(月)
「平清盛」第41回「賽の目の行方」
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引き続き安元2(1176)年から。この回は鹿ケ谷事件の導火線となる、鵜川合戦です。
建春門院滋子が前回亡くなったので、清盛(59)と後白河院(50)との蜜月時代が終わり、関係が冷え始めますよ、という頃の話。
西光の長男・師高が加賀守となり、次男の師経がその目代(国守の代わりに任国へ行く人)として加賀の国へ。通りがかった鵜川寺で「湯を使いたい」と頼んだのに使わせてくれなかったことから諍いになり、師経が鵜川寺を焼き討ちするという事態に発展します。
この鵜川寺が白山神社の末寺だったため、白山神社がこれを比叡山延暦寺に訴えます。(このあたりの社寺の関係はごちゃごちゃしていますが、白山の神をまつる社が日吉大社[大津市坂本]にあり、日吉神社と延暦寺は一体でした。)
怒った延暦寺は、このドラマでもおなじみの強訴を発動して、師高と師経の処罰を要求します。
この人たちが仏僧なのに「神輿」を掲げているのは、神仏習合だからなのですが、この神輿が上記の日吉大社の神輿。日吉大社から延暦寺までは、今なら比叡山坂本ケーブルで行けるのですが(観光インフォメーション)、昔はそんなものはありませんし、比叡山ドライブウェイもありませんので、日吉の神輿を担いで山を登り、京都側に下ろすのです。大変です。
話が逸れましたが、後白河院は当然、近臣の西光の子を流罪にはしたくありません。だから強訴を追い払いたい。そこで重盛(39)が強訴を撃退するよう命じられましたが、父の清盛は比叡山の明雲と仲がいいので、手荒な事はできない。そこで、平家の大軍を見せつければ、合戦をせずに悪僧を追い払えるはず…と思ったのですが、重盛の兵がうっかり神輿を射てしまいました。
重盛が顔面蒼白で福原の清盛に謝りに行くと、清盛は、
「別にいいよ。鵜川で騒動が起こるところからワシが仕組んでたんだから」
ええー。重盛、なーんも知らされてねえー。これはショックです。清盛にしてみれば、真面目でまっすぐな重盛の性格を知っているから、こういう汚い計略に関わらせたくなかったのかもしれません。が、重盛は「父の手駒の一つとして使われていただけだった」と、がく然としてしまいます。
神輿が射られたことで、朝廷は比叡山の機嫌を直そうと、師高・師経の流罪を決定。
清盛に好意的だった西光が、息子2人を流罪にされて「清盛憎し」に一変。加藤虎之助さん、うまいです。
後白河院も、清盛が自分の力を削ぎにかかっていることに気づいて憤り、前回から平家一門の昇進に反感を覚えていた成親は「面白うないのう…」。
死亡フラグです、その台詞。
源氏パートでは弁慶が遮那王に会い、遮那王(牛若)を取り上げたのが弁慶という衝撃の事実を披露。おいおいマジか。想像してしまったじゃないか。
今回は鹿ケ谷の前段の話でしたので、ビッグイベントは次回!ということで。
【拍手お礼】 11月10日23時台に拍手下さった方、ありがとうございます。学校の古文教育はどうしても文法に偏りがちなんですよね。文法が分からないと読めない、というのは間違いではないのですが、作品の面白さを味わうところまで行けていないのではないかと感じます。
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