日記 & 更新情報
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2012年11月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新の絵日記ダイジェスト
2013/02/24 更新情報
2013/02/17 うわああー。
2013/02/09 徒然なるままに
2013/01/31 結局「何を優先するか」という話。
2013/01/20 「八重の桜」を見るのがつらい。

直接移動: 20132 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 5 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 8 7 6 5 4 3 月 

2012/11/30(金) 「平清盛」第45回「以仁王の令旨」
今回は、
・安徳帝即位
・祇王・祇女姉妹、仏御前が登場
・清盛の暴走が加速+宗盛の勝手な振る舞い→以仁王の令旨、という流れです。

そして!時代考証(その2)として、他局含めあちこちに露出して来られた本郷和人先生が、エキストラで登場するという記念すべき回でもあります。

治承4(1180)年、清盛(63)の孫である東宮・言仁(3)への譲位が進む中、取り残されていたのが以仁(30)。後白河院の皇子でしたが、親王宣下すら受けていませんでした。育ての母である八条院(44)は源頼政(77)に、武力で平家を倒せとけしかけますが、あくまで慎重な頼政にイライラ。

源氏パートでも、言仁の即位式などの費用で租税が増え、清盛政権への不満が高まっていきます。弓射が下手くそになってる頼朝(34)。

そして、平泉の義経(22)は武芸の鍛練中。いま頼朝と一騎打ちしたら余裕で勝てそうですね。それにしても、キンキラキンの平泉。服も金ぴかです。烏帽子の縁まで金ぴかです。バブルなのかここは。

2月、言仁が即位して安徳天皇が誕生します。

退位した高倉上皇(20)は、他の寺社を差し置いて厳島へ参詣することに。これに怒った比叡山延暦寺がまたしても強訴の動きを見せたため、宗盛(34)がオロオロとうろたえます。「どうしていいか分からない宗盛」と「冷静に対応する知盛(29)・重衡(25)」という、分かりやすい対比。

清盛は、安徳帝即位の儀を福原でやると主張。盛国が止めても、聞く耳を持ちません。「どれだけの犠牲を払ってここまで来たというのじゃ」とつぶやく清盛。

以前にも書きましたが、本作での清盛は、忠盛や義朝、信西、兎丸といった、これまで自分に多くの影響を与えてくれた人たちの「果たせなかった志」を背負っていて、彼らの思いに背中を押されて、頂を目指して上って来ました。自分の志というよりは、彼らの志を実現しなければならないという義務感が清盛を突き動かしているように見えます。この後のシーンで、時忠が清盛の様子を「弔いのよう」と形容するのは、そういう意味ではないでしょうか。志半ばで果てていった人たちの思いを実現することで、清盛は彼らを弔おうとしているのではないかと、時忠は見ているのですね。

ここで、祇王・祇女姉妹がやって来ます。彼女たちは白拍子なのですが、白拍子は歌手や遊び女でありつつ、霊的なものの声、異界の声を語るシャーマン的な面もあって、琵琶法師に通じるものを感じます。だから祇王・祇女の衣装を「巫女のように」したという公式アカウントの説明はすんなり理解できます。

京では、新棟梁の宗盛が宴に明け暮れる日々を送っていました。時子(55)には呆れられていますが、この人は自分よりも知盛や重衡の方が有能だと分かっているんですよね。実際に指示を出すのは清盛ですし、自分は形ばかり置かれた棟梁に過ぎないと気付いている。そのため、自暴自棄になっているようです。

頼政の息子・仲綱は愛馬「木の下(キノシタではなくコノシタ)」を宗盛に奪われ、悔しさを募らせていました。宗盛が木の下をいじめていると聞き、平家が憎いと父に訴えるも、やはり頼政は「平家に逆らっては生きていけない」と言うばかり。

その頼政を八条院は新宮十郎行家に会わせ、「源氏の武者たちは絶えていない、各地にいる」と示します。行家は為義の息子で、義朝や為朝の弟です。そして八条院は、平家打倒の令旨を出すよう以仁に迫ります。

ここからが今週のハイライト。

「安徳帝即位の儀に居並ぶ平家一門」+字幕とナレーションで重なる令旨の文章+BGMアクアタルカス+仏御前登場

って、カッコよすぎでしょうこれ。しびれました。今週はもう、このシーンだけでいい!この4つを重ねて見せるセンスには「参りました!」です。

で、本郷先生のツイートによりますと、行家が連れてる山伏の中に本郷先生がいたらしいですよ!?

えっ!?あの、1秒くらいアップになった人?ええー!言われないと分かりませんでした。

さて、「清盛が戦っているもの」についてちょろっと書いてみます。

清盛は忠正や後白河院から、ことあるごとに「白河院の血」「もののけの血」と言われています。「親から受け継いだ血がすべてを決定する」という、遺伝至上主義みたいな人間観は私は好きではないし、脚本の藤本さんもそんなことは考えてないでしょう。それでは後天的にどんな影響を受け、どんな物の見方を身につけるかといったことはまるで意味がないということになります。

本作の清盛も、後天的影響を大事にしている人です。実際、清盛自身が「自分は白河院の子だからもののけの血が流れている」などと言ったことはありません。清盛が今の清盛であるのは、忠盛、義朝、兎丸、信西といった人たちと出会って鍛えられ、多くのことを学んだからであって、「白河院の子だから」ではないのです。

それなのに、後白河院からはことあるごとに「もののけ」と言われてしまう。そうじゃない!と、清盛は否定したいのです。「血の呪縛」から自由になりたいのです。だからこそ、上掲の「自分に多くの後天的影響を与えてくれた人たち」の夢を実現することで、白河院の影響など自分にはないということを証明したい。しかし、そこまで白河院を意識することそのものが、清盛が「血の呪縛」にがんじがらめになっているという証でもある。

清盛が「血の呪縛」を乗り越えられるのかどうかは、この時点ではまだ分かりません。が、このドラマが問いかけていることの一つは、「『血がつながっている』とはどういうことか」、もっと言うと「人と人が『つながっている』とは、どういうことか」ということではないでしょうか。それは震災以来、ともすれば安易に乱発された「絆」という言葉の、藤本さんなりの解釈なのかもしれません。最終的に示される答えが何なのかは、この物語を終幕まで見届けて、考えてみたいと思います。

2012/11/29(木) 「平清盛」第44回「そこからの眺め」
今回は治承3(1179)年から。重盛さよならスペシャル、そしてクーデタースペシャルです。

伊豆の頼朝には、早くも娘の大姫が生まれています。直垂も新しくなりました。

そのころ京では、重盛(42)が病臥していました。洗面器抱えてゲホゲホ吐いてます。胃潰瘍だったらしい。

同じころ、清盛の娘・盛子(24)も病床にありました。かなーり久しぶりの登場ですが、摂関家の藤原基実に嫁ぎ、未亡人となっていた女性です。長男の基通(20)が成人するまで、基実の摂関家領を管理する立場でした。

平家の力を削ぎたい後白河院(53)は盛子の病臥につけ込み、摂関家領を取り上げることを画策。清盛(62)を京から遠ざけるため、藤原(花山院)忠雅(55)を厳島参詣に行かせます。演じているのは芸能指導の友吉鶴心(ともよし・かくしん)先生です。

そして清盛が厳島で忠雅を饗応している間に、盛子が死去。たたみ掛けるように基房(36)がやってきて、摂関家領は後白河院のものに。細川基房の笑い方がうまいですね。ものっそい性格悪そうで。

清盛抜きの盛盛会議が始まる平家。時忠(52)は、「重盛が病気なら、宗盛(33)を代わりに立てるべき」と言います。この場面で「重盛は正妻の子じゃない」という発言をしていますが、重盛の母(明子)は「最初の正妻」なので、こんなこと言われる筋合いないのですけども(笑)。

ただ、これは重盛死後の話になりますが、嫡流が宗盛に移ると、維盛・資盛といった小松家は平家内で冷遇されるようになっていきます。これはほんと。で、時忠の案に忠清が反対するのは、小松家に仕えているからなので当然の反応です。

重盛は弟たちと2人の息子を呼び、力を合わせて清盛を支えるように告げます。このときの重盛がすごく痛々しい。やつれて、声にも力がありません。

重盛に1人ずつ名前を呼ばれて、重衡(24)がもっとも感極まった返事をしてましたね。やっぱり彼は共感力の高い子なんだなあ。

そしていよいよ、今週の山場。

病床の重盛を後白河院が訪ねてきます。清盛の攻撃から止めてくれてありがとうと(なんと!)頭を下げ、なんか言い残したいことあったら朕に言って!と温かい言葉をかけてくれます。「父・清盛の国づくりを見守ってやってください」と頼む重盛。弟たちにも言っていましたが、「清盛の暴走を止めろ」じゃなくて「清盛の国づくりを支えよ」なんですよね。なんだかんだで重盛は父さん大好きだったのです。そんな重盛の最期の言葉を自ら聞きに来るなんて、いい奴じゃないか後白河院、と思っていたら、

「ただし、双六に勝ったらな (・∀・)」。

天を突き抜けるほどのSだなこいつ。

体を張って守ろうとしたのがこんなヒドい奴でしたって、瀕死の重盛には衝撃が強すぎるぜ…。そしてまた痛々しくも、最後の力を振り母って賽を振る重盛。でもフラフラ。

そこへ、福原から到着する清盛。

重盛が2歳のときに双六をしたエピソードを持ち出して、「そちは生まれたときから一人で生き、一人で死んでいくのじゃ」って、息も絶え絶えの病人になんちゅうことを言いに来たんですかねこの男は。

この台詞はおそらく、家族愛をほとんど知らない後白河院自身のことなんでしょう。母・待賢門院には愛されていたかもしれませんが、王家は同族内対立が常にあるので、平家一門みたいな「一族団結」は知らないのです。それを持っている清盛が妬ましくて、憎くて、清盛が大事にしている家族というものを壊してやりたかったんじゃないかなあ。子供っぽいですけど。

そして約1カ月後、重盛死去。

窪田重盛のやつれ方が見事でした。頬がこけてたり、目がくぼんでたり。よくここまでやったよ窪田君…!賽を振る時の眼光も凄かったです。

重盛の死後、清盛が推した基通の昇進はかなわず、基房の長男が中納言に昇進。さらに、重盛の知行国だった越前国が召し上げられることになり、清盛の中で何かがキレた。

小刻みに震える清盛の表情筋にご注目ください。

清盛、吠えた。海に向かって吠えました。「変身する!」と思ったよね。絶対変身すると思ったよね。第二形態みたいな。

というのは冗談ですが、これを理由に清盛は上洛し、基房はじめ反平家の公卿39人を左遷・罷免。そして後白河院を鳥羽離宮に幽閉。治承三年の政変(クーデター)です。これで清盛は「武士が世の頂に立った」と感慨に浸るのですが、こんなに反感買いまくるやり方で頂に立つというのは危なっかしいというものです。

そしてラスト、西八条のシーンへ。言仁が障子に穴をあけるという有名なエピソードです。明かり障子にあいた小さな穴を覗き込む清盛の目のアップに、祇園女御の「いかかにござりますが、そこからの眺めは…いかがにござりますか…」というリフレインが重なります。

何このホラーっぽい終わり方!

何これ。大河ドラマでこんな絵、見たことないです。

アップになったのはひたすら「清盛の目」であって、「清盛が見た眺め」は画面では示されません。こういうのが、今年の大河が「わかりにくい」「難しい」と言われるところなんでしょう。見る側の想像にゆだねる部分が大きいから、視聴者は考えながらついていかなきゃいけない。

「世界の正義を探求するテレビ」MCの吉木りささんが言っていて大いに同感だったのですが、「わかりやすい番組」に視聴者が慣らされすぎているんじゃないのかと。1から10まで説明してくれる親切な番組じゃないと、見ることができなくなっている。だから今年みたいに、見る側の解釈次第で何通りにも読み解けたり、深読みしようと思えばいくらでもできる、いわば「余白が大きい」とドラマを見せられると「難解」「疲れる」と思ってしまう人が少なくないのだと思います。見る側に思考を要求するから。そこが面白いのですけどねえ…。

2012/11/26(月) 歴史小説の手法
時代物の小説では、「いかにも史実に基づいているように見せる書き方」というのがあります。

たとえば遠藤周作「沈黙」(1966年)。冒頭、ポルトガルにある「海外領土史研究所」なる施設に、江戸時代に日本に渡った宣教師セバスチアン・ロドリゴの手紙が保管されていると述べ、その手紙を紹介するという形で物語が始まります。

が、そんな研究所は存在しないし、ロドリゴも(ジュゼッペ・キアラという実在の宣教師をモデルとしてはいるものの)架空の人物でして、この仕掛けそのものがフィクションです。

よく似た手法を芥川龍之介も使っています。「奉教人の死」(1918年)は、キリシタンの若者「ろおらん」を主人公とした小説ですが、物語の最後に「この話はイエズス会が長崎で出版した『れげんだ・おうれあ』という書物から引いた」と書き、さらにその本には「御出世以来千五百九十六年、慶長元年三月上旬鏤刻(るこく)也」と書いてあるとか、上下二巻、各60ページで美濃紙が使われているとか、実に具体的に述べています。が、そんな本は存在しないのでして、芥川は実に巧みに嘘をついたわけです。

この作品について、当時キリシタン文学を精力的に研究していた新村出(1876〜1967。のちに「広辞苑」をつくった国語学者)は「慶長改元は十二月であるから、元年三月としたのは作者の粗漏であらう」と指摘。一般読者を惑わせるような出まかせを書くなんて、けしからん、と言うのかと思いきや、

「そこをもっと巧みに繕って、題名などももうすこし考案をこらして和様につけて見たら尚面白かつたことであらう。原名にしてもレゲンダ・オゥレア(Legenda Aurea)はまづい。どうしても『れぜんだ・あうれや』と読ませる方がまことらしく見えてよかつたものをと思ふ。ロオランもあそこはロレンソと云ふべきである」

と、より事実談らしくなるようにアドバイスしているのですから、懐が深いというか、粋な計らいというか。

芥川はこの助言を入れたため、現在青空文庫で読める「奉教人の死」では、書名「れげんだ・おうれあ」はそのままですが、年は「慶長二年」、主人公の名前は「ろおれんぞ」と修正されています。

こういう仕掛けは読者からすると、紛らわしいものではあるし、その分野をよく知らなければ事実だと信じてしまう人もいるのかもしれません。実際、「れげんだ・おうれあ」が実在の書だと信じる人がたくさんいたそうです。それは芥川の巧みな語りが成功したというもので、新村先生の「諸家の遺したこの逸話こそ後世却て珍書界のレゼンダ・アウレアとなるであらう」という評に尽きます。これはこれで、創作の手法の一つなのです。

歴史の研究書に作り話が書いてあったら大変ですが、作家は歴史家ではないですし、創作は自由でないと面白くないですから。遠藤周作の「沈黙」を読んで感動して、最後のページに「以上述べたことは全部嘘であります」なんて書いてあったら、興ざめですよね。

参照:新村出全集第六巻(筑摩書房)

2012/11/22(木) 「平清盛」第43回「忠と孝のはざまで」
前回からの続きで、安元3(1177)年から。清盛の老けメイクもどんどん念が入ってきました。

鹿ケ谷の陰謀に加担した成親(40)は死罪になるところでしたが、重盛(40)が清盛(60)に助命を願い出て、流罪に減刑。

妻の経子は、成親の妹ゆえに罪悪感を覚えていましたが、重盛は優しい言葉を掛けます。場面によって窪田重盛の話し方や声の高さが全然違いますね。父に対して話す時は気持ちが張り詰めている感じですが、経子と話す時はリラックスしています。

ところが成親は、配流先で食事を与えられずに餓死

吉沢悠さん、ガイコツみたいになってるよ…。何kg落としたらあんな顔になるんだ…。お歯黒もほとんど取れてるし。この放送枠でこんなグロい絵、やるか!?って感じでした。相変わらず日曜8時の限界に挑戦し続けている「平清盛」制作陣であります。

助けたつもりの成親の死を知り、呆然とする重盛。結局、重盛の嘆願は清盛に聞き入れられなかったのです。「賽の目の行方」(第41回)でも描写されていましたが、重盛は「父の道具に使われている」という思いが強くなっています。

一方の源氏パートでは、前回両想いになった頼朝(31)&政子(21)が時政(40)に結婚を認められるシーン。遠藤時政パパ、いいなー。厳しさと優しさと、温かさを感じます。北条さんちの子になりたい!(何回言ってんだか。)

年齢を書いてて気づいたんですが、重盛・成親・時政は同い年なのですねえ…。ドラマではそんな風に見えませんが、まあ、それは仕方ない。

そして遮那王(19)は鞍馬から京に下りて来たらしく、一条長成の妻となっている母・常盤(40)と対面。母と子の対面ですが、実は神木君のほうが1つ年上らしい。それで親子の場面をやるってのがすごいですが、常盤のメイクが大人っぽくなっているし、神木君も少年風なので違和感は小さかったです。(さすがに40歳は無理があるけど。)

弁慶とともに東北を目指す遮那王。途中の尾張で自ら元服し、「義経」と名を改めます。平治物語では自分で「義経」と命名したことになっていますが、本作では常盤がこの名を与えたという設定です。

年は明けて治承2(1178)年、中宮徳子(22)に懐妊の兆しあり、との知らせが福原の清盛(61)のもとへ。

清盛、走ってる!めっちゃ走ってる!走る61歳!

この年の11月、のちに安徳帝となる言仁(ときひと)が誕生します。喜びに湧く平家一門。

源頼政(75)が祝福に行くと、清盛に「頼政殿を三位に推挙したら、通ったYO!おめでとう!」と言われ、自分が公卿になれることを知り…ますが、喜ぶというよりは硬い表情です。「俺、平家に生殺与奪握られてるっぽい…」という思いなのでしょう。

清盛はいったん福原に下ったようですが、突然上洛して「鹿ケ谷事件のようなことが再び起きないよう、後白河院を六波羅にお連れする」と宣言。

ここからは平家物語に書かれ、戦前の修身の教科書にも載っていたという、重盛の教訓状です。ここまで清盛と後白河院の板挟みになり、清盛に駒のように使われる苦悩が描かれていましたので、溜めに溜めた負の感情がここで噴出するというのが良く分かります。加えて窪田重盛の熱演。あえて古文そのままの台詞で清盛に訴え、子供のように泣くのです。録画で見ても泣いてしまいますよ、これは…。重盛の胸ぐらをつかんだ清盛の「我が子である、そなたが」と言ったときの光の当たり方と表情も、凄味があってよかったと思います。

重盛について。

重盛を魅力的に描くというのは難しいと思います。戦前なら簡単で、天皇・院に忠実だったという理由で重盛は高評価されていましたから、その通りに描けばよい。そして清盛は、重盛と対立したという理由で相対的にマイナス評価となります。

ところが戦後、石母田正が「平家物語」で知盛を高評価し、相対的に重盛を「冗舌なだけで中身がない」と、評価を爆下げしてしまいます。加えて、清盛が「先見の明があった」「頼朝に先んじた人物」だという再評価が進むと、これまた相対的に重盛は「保守的なだけの小人物」ということで、ますます評価が下がってしまいました。ですので今は重盛の評価が低い時代だといえます。清盛を高く評価すると、重盛の評価は必然的に下がってしまうのです。

で、本作は清盛が主役ですから、当然清盛ageです。清盛をプラス評価しながら、重盛も魅力的に描くというのはとても難しい。

36話「巨人の影」やでは「父の存在が大きすぎてコンプレックスになる息子」という描き方に見えましたが、これ自体は「巨大な父をどう克服するか」というよくある筋なので珍しくはありません。

が、37話「殿下乗合事件」くらいから、清盛の強引さがだんだん前面に出てきます。そのために重盛が苦悩したり、あるいは重盛が自分なりに奔走しても、清盛から評価されないため、無力感が募っていくという描き方になってきました。清盛の暴走が加速すればするほど、重盛が苦しんでいく、いわば「清盛が出した犠牲者」のように描かれているので、これはこれで視聴者が感情移入できるキャラクターになっていました。窪田さんの演技も予想以上。

見方によっては、重盛は「清盛が捨てた良心」のようにも見えます。「鹿ヶ谷の陰謀」で、西光をリンチする清盛を止めるのが重盛だけだったり。重盛は清盛の鏡のように描かれている、という気もします。


【拍手お礼】
11月21日、22日に拍手下さった方、ありがとうございます♪

2012/11/21(水) 「平清盛」第42回「鹿ヶ谷の陰謀」
前回の続きで、安元2(1176)年から。

チーム鹿ケ谷が、お馴染みの「瓶子(へいし)が倒れた」をやってます。1人でおろおろしてる行綱…。今の平家を倒すなんてできない、と行綱は分かっているのです。

源氏パートでは、山木兼隆(平兼隆)と政子(20)との縁談をまとめてきたらしく、ご機嫌の時政パパ(39)。ところが政子が「頼朝が気になるから結婚できない」などと言い出すので、思わずビンタ。何でお前はそう、自分から面倒事に巻き込まれていくんじゃい!俺は政子のためを思って嫁入り先を見つけてきたのに、言うこと聞かんかい!だいたいお前、ずるずる結婚のばして、もうハタチやないかい!売れ残りやぞ!父ちゃん恥ずかしいぞ!と。(このころは10代で結婚するのが普通。)

安元3年5月、明雲(64)が捕らえられ、伊豆への流罪と決定されます。前回の鵜川合戦に関して、ケンカ両成敗ということだったのですが、このドラマでは後白河院(51)が清盛(60)を京におびき出すための計略として描かれます。

源頼政(74)の警護で明雲を伊豆へ護送するはずでしたが、流罪の処分に起こった比叡山の悪僧がこれを襲って明雲を奪還。本作ではこれも後白河院の計画通りということになっており、前回の鵜川合戦が清盛の計画通りに運んだのと一対になっているわけです。ごっしーの読み通り、清盛が上洛。

場面は変わり、頼政の元を訪れたのは先ほどの行綱。

「これは…あの源頼光を祖としながら、今では弱小武士になり果てた多田蔵人行綱殿…」
「なんすかその説明臭い呼びかけ。てか、あんたも似たようなもんだろ」

いや、「これは、多田蔵人行綱殿」という呼び方がなんか説明臭かったのでおかしくて…すみません。

行綱は平家打倒の企てを明かし、頼政に加勢を頼みますが、「そんな簡単にいかないから、ちょっと冷静になれお前」と逆にいさめられてしまいます。

一方の源氏パートでは、政子(21)が近く結婚すると聞く頼朝(31)。

「よう妻に迎えようとする男があったものじゃ」

はい皆さんご一緒にー!

お前がな!

さて行綱は、頼政からいさめられたものの、挙兵の準備を進めていました。京に滞在中の清盛を御所に呼び出して捕らえ、その間に六波羅を攻めるという計画です。

しかし内心ではやはり、この計画がうまくいく気がしなかったらしい行綱。密かに清盛のもとを訪れ、平家打倒の謀議について密告してしまいます。

成親が用意したという白布を見たうえで「頭目は誰だ」と問う清盛。成親はリーダーをやってのける人物ではない、成親がべったりくっついている大物といえば、1人しかいません。

家成の法要の件で相談があると聞き、六波羅を訪れる成親。

ここからラストまでの流れは圧巻でした。ブラック全開無表情の貞能、庭でこれ見よがしに燃やされる白布。そして西光と清盛の対決へ。

お前、結局は私怨で動いてるんだろ?志なんかじゃないんだろ?と西光に言われて激昂する清盛。怒るのはやはり、図星だから。でも、完全に図星というわけでもないんですよね。清盛は、忠盛や義朝、信西、兎丸といった、これまで自分に多くの影響を与えてくれたいろんな人たちが「果たせなかった志」を背負っていて、彼らの思いに背中を押されて階段を上ってきているのです。それは「私情」と言われれば確かにそうだけど、「復讐」の一言で片づけられたくはないのですよね。少なくとも自分では、多くの人の遺志を大事にしてきたつもりだったのに、そんな言い方されたらそりゃ怒ります。お前、何にも分かってねえ!と。

しかし一方で平家の面々は、なぜ清盛がそんなに怒っているのか理解できず、西光がリンチに遭うのを見て顔をしかめているだけ。清盛が背負っているものが、平家内で理解されていないのです。清盛、孤独です。

この場面と交錯するのが、源氏パートの頼朝・政子。政子は頼朝に、清盛がなぜ髭切の太刀を与えたのか思い出せと迫ります。そのとき清盛は確かに、「武士の世を切り開く」と、14歳の頼朝に告げたのでした。

しかし、そう宣言した清盛の志は、西光には「単なる復讐」だと言われ、平家一門からも共感を得られていない…という、清盛の孤立を印象付ける描き方となっています。

西光法師は「平家物語」でも十分おもしろい人物なのですが、加藤虎ノ介さんが鬼気迫る演技をしてくれました。加藤さん、お疲れ様でした。「いやらしい西光」をありがとう。

西光は出自のよく分からない男で、低い身分からのし上がって後白河院の近臣になりました。西光からすると、清盛は自分と同類のように見えたんじゃないでしょうか。「平家物語」では、清盛に対して「過分」という言葉を投げつけているのは、「お前、そんなに出世するような身分じゃないだろ?俺と似たようなもんだろ?」と言いたいのでは、という気がします。

2012/11/19(月) 「平清盛」第41回「賽の目の行方」
引き続き安元2(1176)年から。この回は鹿ケ谷事件の導火線となる、鵜川合戦です。

建春門院滋子が前回亡くなったので、清盛(59)と後白河院(50)との蜜月時代が終わり、関係が冷え始めますよ、という頃の話。

西光の長男・師高が加賀守となり、次男の師経がその目代(国守の代わりに任国へ行く人)として加賀の国へ。通りがかった鵜川寺で「湯を使いたい」と頼んだのに使わせてくれなかったことから諍いになり、師経が鵜川寺を焼き討ちするという事態に発展します。

この鵜川寺が白山神社の末寺だったため、白山神社がこれを比叡山延暦寺に訴えます。(このあたりの社寺の関係はごちゃごちゃしていますが、白山の神をまつる社が日吉大社[大津市坂本]にあり、日吉神社と延暦寺は一体でした。)

怒った延暦寺は、このドラマでもおなじみの強訴を発動して、師高と師経の処罰を要求します。

この人たちが仏僧なのに「神輿」を掲げているのは、神仏習合だからなのですが、この神輿が上記の日吉大社の神輿。日吉大社から延暦寺までは、今なら比叡山坂本ケーブルで行けるのですが(観光インフォメーション)、昔はそんなものはありませんし、比叡山ドライブウェイもありませんので、日吉の神輿を担いで山を登り、京都側に下ろすのです。大変です。

話が逸れましたが、後白河院は当然、近臣の西光の子を流罪にはしたくありません。だから強訴を追い払いたい。そこで重盛(39)が強訴を撃退するよう命じられましたが、父の清盛は比叡山の明雲と仲がいいので、手荒な事はできない。そこで、平家の大軍を見せつければ、合戦をせずに悪僧を追い払えるはず…と思ったのですが、重盛の兵がうっかり神輿を射てしまいました。

重盛が顔面蒼白で福原の清盛に謝りに行くと、清盛は、

「別にいいよ。鵜川で騒動が起こるところからワシが仕組んでたんだから」

ええー。重盛、なーんも知らされてねえー。これはショックです。清盛にしてみれば、真面目でまっすぐな重盛の性格を知っているから、こういう汚い計略に関わらせたくなかったのかもしれません。が、重盛は「父の手駒の一つとして使われていただけだった」と、がく然としてしまいます。

神輿が射られたことで、朝廷は比叡山の機嫌を直そうと、師高・師経の流罪を決定。

清盛に好意的だった西光が、息子2人を流罪にされて「清盛憎し」に一変。加藤虎之助さん、うまいです。

後白河院も、清盛が自分の力を削ぎにかかっていることに気づいて憤り、前回から平家一門の昇進に反感を覚えていた成親は「面白うないのう…」

死亡フラグです、その台詞。

源氏パートでは弁慶が遮那王に会い、遮那王(牛若)を取り上げたのが弁慶という衝撃の事実を披露。おいおいマジか。想像してしまったじゃないか。

今回は鹿ケ谷の前段の話でしたので、ビッグイベントは次回!ということで。

【拍手お礼】
11月10日23時台に拍手下さった方、ありがとうございます。学校の古文教育はどうしても文法に偏りがちなんですよね。文法が分からないと読めない、というのは間違いではないのですが、作品の面白さを味わうところまで行けていないのではないかと感じます。

2012/11/15(木) 「平清盛」第40回「はかなき歌」
今回は承安4(1174)年から。ついに大輪田の泊が完成しました。訪ねてきた西光に清盛(57)は銭での売買を教え、宋銭を京でも広めてほしいと頼みます。かつて西光が仕えた合理主義者・信西も、生きていれば同じことをやっただろう…と、西光も宋銭を受け入れてくれました。

清盛は、後白河院(48)と建春門院滋子(33)の厳島神社参詣を計画。高倉天皇(14)と中宮徳子(18)の間に皇子が産まれるよう、祈願してもらおうというのでした。(安徳天皇が生まれるのはずっと後ですので、清盛はやきもきするし、徳子はプレッシャーを感じることになるのですが…)

3月、後白河院と滋子が厳島へ。このドラマはスタジオでの撮影が多いので、厳島ロケの映像は解放感があっていいですね。

一方、伊豆。北条時政の館では、東国スリーアミーゴスの一角・上総常澄の死をみんなで悼んでいました。

配膳に来た政子(18)がずいぶん女らしくなっている!鬼も十八ってやつですかねうわ何をするやめあsdfghjkl

スリーアミーゴスから「あんた源氏の嫡男なのに、こんなとこでくすぶってていいのかYO!」と発破をかけられますが、「私には関わりのないことにて」とやる気のない返事をする頼朝。木枯らし紋次郎かお前は。政子が家まで押し掛けてくるも、冷たく追い返してしまいます。

さて、京・小松邸(重盛の館)。

経盛(51)が、維盛(17)と資盛(17)に舞の稽古をつけていました。風雅の道に力を入れる理由を、経盛は「平家は王家に連なる一門になったから」と言っていますが、重盛(37)は「法皇様は芸事を好まれるから」とごっしーに特定しているあたり、重盛の後白河寄りの立場がさりげなく出ています。

また六波羅では、知盛(23)と重衡(19)の弓の稽古を忠清が指導中。2人ともなかなかの腕前です。重衡のドヤ顔がたまらん。辻本祐樹君の「無邪気な少年」っぽさがいいですね。重衡役がぴったりだと思います。

どや、上手いやろ!と得意な重衡に忠清は「実戦では的は止まっていてくれない」と釘を刺しますが、

「いくさなど、起こるのか?(・д・)」

と無邪気に返す重衡。Oh…なんという戦争を知らない子どもたち…。重衡は保元の乱も平治の乱も知らないのですよね。弓馬を「実戦に必要な技能」ではなく、あくまでも「スポーツ」として考えていたのです。

武芸だけやってやってりゃいいわけじゃないんだよ、ごめん忠清、と知盛にも言われてしまい、ショックを受ける忠清。やめて!藤本宏さんは坂雲でもJINでも武将や軍人の役ばっかりなのに、武芸いらないとか言っちゃダメ!

あーあー泣いちゃったー。

そこへやってきた源頼政(71)。おおっ、忠清の悲哀を分かってくれそうな古兵(ふるつわもの)が来てくれた!と思ったら、「法皇様の今様合わせに、経盛殿をお誘いに」。

忠清、ダブルパンチ。(つД`);

ちなみに頼政が経盛の名前を出したのは、この二人は実際に和歌友達で仲が良かったからです。「十訓抄」にそういうエピソードがあります。そこまで呼んでいるのか、藤本有紀さん…もう平伏するしかないぜ…。

ちょっと話は横にそれますが、重衡役の辻本さんについて。ツイッター上では05年「義経」の平家側キャストを「完璧だった」と、やたらと高評価することで今年の配役に難癖をつけるような向きもあるのですが、全く的外れだと思います。重衡が細川茂樹ってのは「ないわー」と思うんですよ。若くないもん。重衡は若々しく、子どものように無邪気なところがある人じゃないと。細川茂樹だと、なんかもう人生の苦渋を知っちゃってる感じがしますからね。辻本祐樹君で大正解。

あと、知盛が阿部寛ってのも「ないわー」です。西国の人たちである平家の公達は平たい顔族だったはずで、あんなローマ人みたいな顔の人がいるわけないです。それに知盛は病弱だったので、阿部寛だとガチの武人すぎて、おかしい。知盛像を少しも分かっていない配役だと思います。

まあ、知盛に阿部寛がキャスティングされたのは、「義経」では教経がスルーされた分、その役割が知盛にも負わされているからなんでしょうね。(だから、知盛が義経に八艘飛びをさせている。)それも教経ファンからすると、暴挙なんですが。

さて、「平清盛」に戻ります。

相撲(すまい)の節会をまたやりたいので、清盛に助力を頼みに福原にやってくる西光。ところが、清盛はあっさり断ってしまいます。

西光は信西に憧れて、自分が理想とする人物である信西に近づこうとして、その事績をなぞろうとしている。でもそれはうわべだけの模倣にすぎず、西光は信西にはるかに及ばない人物なのだ――と、清盛はとっくに見抜いているのです。

場面は変わり、後白河院の御所。一人で今様を紙に書きつけては歌っている後白河院。そこへ滋子がやってきます。この場面、とても良かったです。和歌に比べて俗っぽい、レベルが低いものと思われている今様と、自分の存在を重ねて、それでも今様が好きだと語る後白河院。グッと来ました。

重盛が右近衛大将になりますが、成親と西光は平家の権勢が面白くない様子。

で、いつのまにか安元2(1176)年になり、後白河院の五十の賀が催されます。「安元御賀記」ですね。経盛(53)の華やかな衣装が面白いです。

ここで後白河院が清盛に対し、「お前は俺に欠かせないし、俺はお前に欠かせない!」と、なんかすごい発言。なんですかそれ。愛の告白ですか。

維盛と資盛の舞(青海波)と重ねながら、滋子と後白河院の2人の時間が描かれます。シャクヤクが床に敷き詰められてるのが、「半分夢の中」みたいな映像ですね。

そして、滋子他界。享年35歳。

おお!上西門院様!お久しぶりです!

ごっしーが最後に歌ってる今様が切ない…。(つД`);
成海滋子、登場当初は幼い感じがしましたが、だんだん大人っぽくなって良かったと思います!


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.