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2008/08/04(月)
大阪市立美術研究所物語 4
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佐伯祐三の師が赤松麟作である。赤松麟作氏の履歴を簡単に書くと・・・ 1878年、岡山県津山市生まれ。1897年、東京美術学校西洋画科選科に入学。黒田清輝に師事し、在学中から黒田が主宰する白馬会に出品。1901年、第6回白馬会展で「夜汽車」が白馬会賞を受賞。1907年、大阪梅田に赤松洋画塾を開設する。美術教育にも尽力し、その功績で1948年、大阪府文芸賞受賞。1953年、逝去。人物の表現に定評があったが、この作品も豊富な裸婦を堅実な筆致で描いている。 ・・・・・ということになるがとてもとても交友録になると、ここに描ききれるものではない。 ここ大原美術館の楚を築いた児島虎次郎始め、青木繁、熊谷守一、山下新太郎、和田三造などとも交友あるし、大阪に来てから 大阪朝日新聞の絵画担当として赴任してきた山内愚僊とともに大阪洋画壇の基礎を形成したのも彼である。 その後、大正十二年(1923)に大阪市美術協会が発足し、翌十三年四月に、信濃橋西北角の日清生命ビル四階に信濃橋洋画研究所が開設される。そのおり二科会会員に推挙され、洋画壇に新風を送り込んでいた小出楢重を 中心に、黒田重太郎・国枝金三 ・鍋井克之の四人が船場のボンの根津清太郎をパトロンに設立したのも赤松麟作の運動の賜物である。 ちなみに細川政権の文相が赤松麟作の娘で「男女均等法」を成立させたのも耳新しい。 画像は読書する娘を描いたものである。
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