美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2008/08/07(木) 大阪市立美術研究所物語 7
人間、若い頃の夢は奔放であり、その奔放さ故に自分自身、如何していいか解らぬ時が俺の高校生時代だった。

毎日、破裂しそうな想いを車を無茶苦茶走らせる事で発散していたのだ。

そんな折、難波へ遊びに行って似顔絵を描いて貰ったのが大阪美術研究生だった儀間比呂志である。確か二百円だったと思うが、氏は俺の顔を喰いつく様に見ては一枚描いては破り、二枚描いては捨て、何時終わるか解らぬ描き方に俺も苛立ってきた。

「あんさん、もういいわ、金払うから・・・」と言うと「君は人生を急ぎすぎており、自分を粗末にしているのではないか・・・」とまた画用紙と格闘するのだ。

俺はこの一言がすごく胸に響き、それからロシアの似顔絵描きニコライ・ガノー等の話になったのは、こちら倉敷・大原美術館の楚である児島虎次郎と日本孤児院の創始者・石井十次の娘との結婚話のときニコライ・ガノーが出てくるので記憶にあったからである。

 その似顔絵は漫画的ではなく、鋭い線で俺の不安、憂い、あるいは愚かさ、野卑等、内面を表出し、己とは何者なのかを問うているようであった。

似顔絵といったら、似ていることが全てであると思っていたが、そうではなかった。

その絵は自分の気持ちや内面までも描いてあるようでズッシリと胸にきた。そして自分の思っていた顔と違う絵に向き会ったのは新鮮な驚きでもあった。その絵から将来に向けての道を必死で見つけようとしている自分にも気付いた。何回見ても見飽きなかった。

以後その似顔絵は俺の宝物になり、結局、儀間比呂志氏に感化され、高校を中退、大阪美術研究所の門を叩くのである。

2008/08/06(水) 大阪市立美術研究所物語 6
戦後の混乱期は普通の人も大変だったのに、況や絵描きなどどのように暮らしたか想像以上の辛酸を甞めている。赤松凛作も 1939年、大阪市立美術館で還暦記念回顧展開催して以後、 洋画研究所閉鎖。戦災で多くの作品を失い、路頭に迷っていたのである。ここに我々似顔絵描きから「春さん」といわれる画家の痕跡を辿ってみよう・・・・
 山中春雄は、1919年8月大阪市浪速区元町に生れた。料理屋の生まれとされるが、生い立ちについてはほとんど語らなかったと言われ、詳しい記録は残っていない。難波商工学校商業本科を中退後、1935年から大阪中之島洋画研究所に学び、1937年に二科展に<少女>を出品、10代にして画家として順調なスタートを切るが、1940年に現役兵として満州へ渡る。1943年に除隊となるが、満州で従軍看護婦長をしていた夫人と現地で結婚し、1945年6月までハルピンに居住、済州島で終戦を迎えた直後、ハルピンで生別した妻子と前後して帰国した。帰国の年を1946年とする資料も存在するが、本稿では、東京文化財研究所保管の日本美術年鑑作成用資料に拠っている。帰国後は大阪の闇市で糊口を凌ぎながら、中之島美術研究所の先輩であった小林武夫(筆者の師、行動美術協会第1回展入選、以後没年まで同会所属。)等から油彩道具一式をもらって再び描き始め、1947年の第2回行動展に<子供と向日葵>出品、会友となる。絵を描くことと生きることの意と介し、妻や長女を数多く描き、当時の山中の人物描法を知る貴重な資料となっている。描くことのゆとりこそまだ見られないが、暗い色調の中に、あどけない表情を丁寧に捉えた、素直な愛情に溢れた作品である。一転、姉を頼って横浜に移住したのは1948年とされ、妻と長女、長男を喰わすため、絹布に写真から似顔を描く、当時「絹こすり」と呼ばれた仕事で進駐軍を相手に生計を立てながら、行動展への出品を継続し、行動会の重鎮になるのである。しかし、私の師・小林氏も似顔絵仲間も「春ちゃん」の通称でとおっている・・・

2008/08/05(火) 大阪市立美術研究所物語 5
さて「今治水」でお馴染みの「丹平ハウス」が戦災で焼失。そこで「赤松美術研究所」は大阪市立美術館に移動するのである。もともとここは住友家が神戸住吉に本邸を移し、昭和元年に慶沢園の敷地12,940坪(茶臼山邸)を大阪市へ寄贈した後に市立美術館が完成した所であった。
 この庭園の設計・施工を担当したのは当時の高名な庭師であった「植治」こと小川治兵衛である。治兵衛は山県有朋の無隣庵を手掛けて以来、京都を中心に活躍し、日本の近代造園に大きな足跡を残した造園家で、彼の手になる庭園は国や京都市の名勝などに多く指定されている。 慶沢園は、大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園である。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿・あずまや・が配されている見事な庭園を寄贈したのである。
 私事になるが大道で長年、似顔絵を描いていると「人の身体に潜む利己と厚意の比率、あるいは理性と感傷の比率」を計算して人を見る癖になっているが、この住友にしろ、森平兵衛にしろ、感嘆の声を上げざるを得ないのだ。
 勿論、赤松麟作も感動したであろうし、現に関西洋画壇のため心骨を捧げている。
 私は武田信玄の言った「城は人」であり、いくら立派な作品、あるいは教育材料、医療器具があろうが、それを扱う人間が駄目ならその本体は何等役に立たないと思っている人間だ。

 私が入所した折の美術研究所は素晴らしい教授陣であったと感謝している。

2008/08/04(月) 大阪市立美術研究所物語 4
佐伯祐三の師が赤松麟作である。赤松麟作氏の履歴を簡単に書くと・・・
1878年、岡山県津山市生まれ。1897年、東京美術学校西洋画科選科に入学。黒田清輝に師事し、在学中から黒田が主宰する白馬会に出品。1901年、第6回白馬会展で「夜汽車」が白馬会賞を受賞。1907年、大阪梅田に赤松洋画塾を開設する。美術教育にも尽力し、その功績で1948年、大阪府文芸賞受賞。1953年、逝去。人物の表現に定評があったが、この作品も豊富な裸婦を堅実な筆致で描いている。
・・・・・ということになるがとてもとても交友録になると、ここに描ききれるものではない。
 ここ大原美術館の楚を築いた児島虎次郎始め、青木繁、熊谷守一、山下新太郎、和田三造などとも交友あるし、大阪に来てから
大阪朝日新聞の絵画担当として赴任してきた山内愚僊とともに大阪洋画壇の基礎を形成したのも彼である。
  その後、大正十二年(1923)に大阪市美術協会が発足し、翌十三年四月に、信濃橋西北角の日清生命ビル四階に信濃橋洋画研究所が開設される。そのおり二科会会員に推挙され、洋画壇に新風を送り込んでいた小出楢重を 中心に、黒田重太郎・国枝金三 ・鍋井克之の四人が船場のボンの根津清太郎をパトロンに設立したのも赤松麟作の運動の賜物である。
 ちなみに細川政権の文相が赤松麟作の娘で「男女均等法」を成立させたのも耳新しい。
 画像は読書する娘を描いたものである。

2008/08/03(日) 大阪市立美術研究所物語 3
大阪美術研究所創設由来を語るには、どうしても佐伯祐三のことを紹介しなければならない・・・・

大阪中津の寺に生まれる。北野中学在学中から赤松麟作の画塾でデッサンを学ぶ。1917(大正6)年上京、川端画学校に学び、翌年東京美術学校に入学。間もなく父・弟の死や兄の許嫁の自殺などが重なり、生と死の不安を自我の間題として生きることがならわいとなる。1921(大正10)年、池田米子と結婚、下落合にアトリエを構えた。1923(大正12)年、東京美術学校卒。美校の同級生と「薔薇門社」を結成し、展覧会を開く。大震災後の同年11月、妻子および友人と渡仏。翌年パリに着き、グランド・ショミエール自由科に通う。初めセザンヌに関心を抱き、多くの実作に触れた。この年の夏、里見勝蔵とともにその師ヴラマンクをオーヴェルに訪ね批評を乞うが,「このアカデミスム!」の怒声を浴びる。以来オワーズ河周辺にヴラマンク好みのモティーフを探索し、作風は急速に激烈なフォーヴ調へと変わった。1925(大正14)年1月にはクラマールから市内のリュ・デュ・シャトーに転居。年の半ばにユトリロを見て感動し、パリの街景を描き続ける。同年10月、米子とともにサロン・ドートンヌに入選。翌年3月帰朝した。同年5月、里見や前田寛治らと一九三○年協会を結成。同年9月の第23回二科展に滞欧作18点を出品し、二科賞を得る。だが日本の風景によっては自己の造形理念を実現できぬと焦慮し、1927(昭和2)年夏、京城、モスクワを経て再びパリに行く。すさまじい制作力をもって、広告の文字や線を乱舞させる狂燥な画風を試みた後、翌年には≪モラン風景≫を連作、フォーヴの技法によって堅固な構築性を追求したが、肺患に加えて神経衰弱も高じ、同年6月セーヌ県立エブラール精神病院に入院。8月16日、同病院で30歳の生涯を終えた。

おお、俺もアル中で入院しているぞ・・・

2008/08/02(土) 大阪市立美術研究所物語 2
大阪市立美術研究所・雑感


東京が銀座なら大阪は心斎橋である。
大正15年(1925)に大阪市の人口は東京市を越えて世界第六位の都市となって名実共にメトロポリス=“大大阪”になったわけである。ちょうど今年、昭和十年代くらいまで栄えた大阪のモダニズム美術の展示があると言うので行ってみた。 
 会場は元の出光美術館跡で心斎橋の真ん前であり、全体のインテリが、なんだか世俗的な旦那の道楽・商売って感じである。   まずモダニズムの中心だったデパート大丸とそごうの美麗なアールデコ建築・内装はいまも健在でなかなかすごいものだったね。
 正面に屏風に仕立てた漆螺鈿装飾扉が訪れた人を会場内に誘なうかのように展示されている。漆の黒に螺鈿の細工、今も真珠色に光が放たれ誰もがしばし目を奪われる。有名画家によって描かれた艶やかな着物姿の女性のポスター達が流し目でこちらを見る。赤松麟作の「裸婦」の光と陰影の捉え方の巧みにその場に佇み、中村貞以の「失題」の豊満さに心を躍らせる。今も昔も女性が主題。
その頃の浪速男は「船場で店を構え、ミナミの盛り場で遊び、帝塚山・北畠の邸宅に住み、白砂青松の浜寺(堺市)に別荘を持つ」のが成功者の一つの姿であった訳だが・・・
 大阪・心斎橋の下には長堀川が流れ材木の原木が集積し、金と人の集まる所に文化の華が咲くのも自然であろう。
 そんな一人に、今でもお馴染み「歯痛薬「今治水」を発売して全国的に有名となった森平兵衛という人が、昭和5年に丹平ハウスというビルを建て、大阪の新しい顔となるのである。
 アメリカのドラッグストアを参考に1階店舗内にソーダ・ファウンテンを開設すると共に写真用品売場も設置、階上には貸し事務所・写真スタジオなどのテナントが入居した。「丹平写真倶楽部」は写真倶楽部「浪華写真倶楽部」で活躍していた上田備山、安井仲治が中心となって丹平ハウス2階を活動の場に会員11人を集めて結成したアマチュア写真倶楽部。「浪華写真倶楽部」から分かれて結成され、棚橋紫水・本庄光郎・吉川源次郎(丹平ハウス支配人)や手塚粲(ゆたか、手塚治の父)が活躍した写真倶楽部は赤松洋画研究所(明治40年に洋画家・赤松麟作を中心に梅田に誕生した研究所)をも活動拠点とし、「浪華写真倶楽部」「芦屋カメラクラブ」と共に関西モダニズムの中心的な写真倶楽部となるわけだ。

 故に森氏の「丹平ハウス」がなければ佐伯祐三も手塚治虫も後で話す、日本を揺り動かした芸術家が誕生しなかったと言っても過言ではない。
                              続く

2008/08/01(金) 大阪市立美術研究所物語 1
大阪市立美術研究所の卒業生が集まって展覧会するので「お前も出品しろ」と言って来た・・・・
 大阪美術研究所は在野でそんな展覧会作っても真の芸術家などそだたないと思っているのでお断りした。いずれこの事は「大阪美術研究所物語」で書くつもりでいる。

 ここは赤松 麟作が創立した。彼は岡山県津山に生まれる。明治16年(1883)一家で大阪の中之島に移る。明治29年(1896)、東京美術学校で黒田清輝に師事。明治35年(1902)、「夜汽車」が白馬賞を受賞。明治37年(1904)大阪朝日新聞社(北区中之島3丁目)に入社。明治43年(1910)、梅田に洋画塾(現:JR大阪駅の北側付近。大正11年(1922)頃、大阪駅の拡張で立ち退く)を開く。大正15年(1926)心斎橋筋の丹平ハウスに赤松洋画研究所を設立する。戦後、大阪市立美術研究所で教鞭をとった。後進を育てるなど大阪洋画の台頭に果たした役割は大きい。門下生に佐伯祐三らがいる。昭和28年(1953)天王寺区で死去。

 私は佐伯祐三から数えて33人目の卒業生であり、愛着のあるところだから、一冊に纏めるつもりだ、とも言っておいたよ。

画像は赤松麟作の代表作「夜汽車」


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