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2008/04/03(木)
私はタイにいくかも知れません、さて・・・・・
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私はタイにいくかも知れません、さて・・・・・
ドストエフスキーの「貧しき人々」は処女作だった。この作品に感動したネクラーソフは当時の大批評家ベリンスキーの許を訪れ「新しいゴーゴリが現われた」と叫んだ時、相手は「君たちのところではゴーゴリがキノコのように生えてくるのか」といったというが、ベリンスキー自体すっかり感動してしまいドストエフスキーに会いたがったのであった。 僕は昨日読み終えたあと今も余韻が残って頭がボーとしている。 まだ中学二年生のことだ。「ロシア三人集」という分厚い本が家にあって 、僕は病気で寝ていたからずいぶん熱心に読んだ記憶がある。ゴーゴリ、チェホフ、ゴリキーが収録されていた。ゴーゴリでは「検察官」、「タラスブーリバ」。チェホフは「桜の園」、ゴリキー「どん底」が載っていて豪快なコザックを描いた「タラスブーリバ」には夢を踊らされ、戯曲の「検察官」と「どん底」は台詞まで覚えるのだった。中学生の記憶力はすごいもので今でも部分的に台詞が言えるのです。チェホフはデリケートで理解できなかった。十数年前にチェホフを読み漁った。 中学生のその頃ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」を読んだのであるが難しい本だった。成人してから「罪と罰」を読んだがこれは凄かった。 ペテルブルグの貧しい学生ラスコーリニコフが追い詰められた心境から質屋の婆さんを襲い斧で殺して金を奪う最初の心理描写は殺人者の内面が克明に描かれるのだと恐ろしくさえなったのである。彼はその犯罪を隠すのだがある時下級官吏の貧しい男に出会い、その娘のソーニャを知る。官吏の貧しい生活、そんななかでソーニャは売春婦となって家族を助けていたのだが彼女の心は美しくやさしく、ラスコーリニコフは彼女に会うことによってすさんだ心を癒されるのである。 しかしドストエフスキーから随分遠ざかっていたし、彼のレアリズムと重厚な内容を敬遠してそれ以来遠ざかっていた。 今再び「貧しき人々」を読んで改めてドストエフスキーを読む気になってきた。 それは僕が絵画に対して甘い考えを持っていることをこの偉大な作家によって突きつけられた気がするからである。日本の最近の絵画も文学も売らんがために絵空事になっている。本当に貧しい人々や苦しむ人々を描く事を避けている。ドストエフスキーは救いようのない世界を真っ向から描いた人である。まったく美化しないが、しかし,底には美しいものが流れている。目を背けたくなるような「貧しき人々」の中に出るマカール・ジェーヴシキンとワーレンカの愛は純粋であり、貧しさのために破滅してゆく現実は救いようがないがしかも美しいのである。それはラスコーリニコフとソーニャにもいえる。現実の醜悪さの中にあって底辺に生きる人間の美しさが描かれるのである。マグダラのマリアをなぜか連想するのである。 僕は考えねばならない。僕はなんという絵を描いてきたのか。タイにもし住むことが出来れば僕は底辺の人々を深く見つめ描かねばならないと思うことになった。これで目的ははっきりした。ドフトエフスキーをもっと読もうと思う。今ならわかる。中学生ではないのだから。そして人生の酸いも甘いも噛み分けられる年になったのだから。レアリズムに戻ろう。
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