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2008/02/09(土)
倉敷にがおえエレジー 題110回
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終章 似顔絵師の墓漂碑
前号で大道似顔絵師は大部分消滅したと言った。すると読者から「お前は消滅したというが東京タワーや時代劇村、あるいはイベント等で幾らでもいるではないか」というご指摘をいただいた。 違うのだ。俺の言っているのはあくまで大道で似顔絵を描いているもので、檻の中にいれられ、キバやツノを抜かれ、バカなパフォーマンスしている似顔絵描き等の事をいっているのだ。
思うにこの消滅の傾向は昭和六十年前後より予感するようになり、どうしても大道似顔絵師のことを活字に定着したく、「似顔絵漂流記」を発表した訳である。まさに大道似顔絵師の墓標碑であるが、最後にこの本に付いての評論を書き、この章を終わりたい。
中央公論「誰でも出会っているのに、何時かその事を忘れてしまう。私達にとって(大道似顔絵師)はそんな存在ではないだろうか。本書は、現在全国に四十人(うち半数以上は東京)いると推定される彼等の生態を丹念に伝えるものである。絵筆の実力はともかく、破天荒ぶりではいずれもひけをとらぬ奇人、変人達のバイタリティ溢れる姿には唖然とさせられる。とりわけ、好奇心旺盛である事おびただしく、大胆かつ人情家、したがって好色な主人公ガタロー(俺のアダ名)が著わした「全国漫遊日誌)は圧巻である。宿も金もない放浪の旅ではあるが(あるいはそれ故にか) 当世これほど豊かな日常を送っている者が他にいるだろうか。と羨望せずにはいられない。もしかしたら、私達がとうに忘れてしまったのは、人間そのものに直面する素直な眼差しなのかも知れない。
文芸春秋・「似顔絵漂流記」という題名から察しられる通り、ガタローの描いている日記は秀逸だ。どの章にも変わった人物が登場し、内容を面白くしているが、考えように依ってはガタローの訴えたいのは、似顔絵描きから見た社会と人間の実装ではないかと思える。それはガタローが滑稽やユーモアやエロチックの絵筆を駆逐して面白おかしく描いているが、読者の勝手ですまされねものは、ガタローがそれを通して訴えようとしている慟哭や怒りから眼をそらす事である。ガタローが力をそそいで描きだそうとしているのは、これらの登場人物への深い愛情であって、読者はそれを感じてくれれば笑いも涙に変わるであろう。またガタローにとって何処の誰かもわからぬ一介の貧乏画家であり、ヤクザである汚き格好をした者によせる庶民の愛情である。我々と同じく貧乏で不幸で惨めな境遇にありながら、その中にこそ、美しい人間性を見出そうとする探求にこのガタローは賭けているようである。故に高度成長とかいいながら、道具に使われ、身辺を飾りたて、内容空疎な人間達には痛烈な批判の一書になるだろう。
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