|
2008/02/05(火)
倉敷にがおえエレジー 題107回
|
|
|
俺もその様な印象に捕らえられてたのはの東北の遠野祭りに行った時であった。
この町ではお盆、それに春と秋のお彼岸会には村人達それぞれの檀家寺に集まり、一日死者の肖像画と共に過ごすのだ。
例えばこの寺では日露戦争の佐々木種吉より、日中・太平洋戦争で戦死した軍服姿の英霊。紋付姿のお爺さんやお婆さんから、若くして死んだ青年子女から童子までコンテ、水彩、油絵、絹本、写真等の肖像が数百点、ジッとこちらを見ているのである。その前で村人達は御詠歌をあげ、祖先を供養するのであるが、と同時にこれらの人々が残された我々を守ってくれるという願いが籠めるられている。
思うに我々は死者を思うことによって、一時的悲嘆よりも永劫の霊的紐帯を求めようとする。それは死者の霊魂と霊的に交渉することで想いを新たにする美しい行為てあり、その行為によって自己を精神的に救済したり、慰謝する事ができるのだ。
とくに感動するのは、死者達があの世で何不由なく生活出来るように米や酒、魚、果物。あげくのを果ては金まで書き入れてあることである。
それは愛しいものがあの世で幸福に暮らしているのだ。と己ずから納得せしめる行為であろう。あるお婆さんは「この寺にくれば先祖代々が何時も変わらぬ姿で迎えてくれる。いずれオレも・・」 と涙ぐみ、彼女も生きて居る事は死に向かっていることだと悟り、この影の部分で安心立命を得ているのではないだろうか。
|
|
|
|