美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2008/02/18(月) 大阪市立美術研究所・雑録 H
 私事で恐縮だが、儀間比呂志氏の影響で大阪市立美術研究所に入るのである。

 その頃の所長は新世紀会の天王寺卓二氏で氏の祖先は安土桃山時代の堺の豪商。号は昨夢斎。

信長・秀吉の三宗匠の一人であり、本願寺門徒として堺に入り、茶の湯を武野紹鴎に学び、その女婿となった人であった。

 故によくお茶を嗜んでおられたのを記憶している。

 教授陣では行動美術の小林武夫氏、氏は箕面で同郷のよしみでよく面倒を見てくださり感謝している。日展の松田忠氏、東光会の家永喜三郎氏など多数おられたが、後は申し訳ないが忘却した。

 生徒の先輩には大阪芸大教授になる司久、モンマルトルの似顔絵の親玉になる小林善幸、イラスト界の大御所・山名文雄など多士済々のメンバーが揃っていた。

 まず入ると前期といって胸像の石膏デッサン、そして全体像の石膏デッサン。それから人体デッサンに至り、絵画部、彫塑部に進むのである。

面白いのは何年たっても駄目なものは石膏デッサンで前へ進めない事であった。
 何十年も通いつめて石膏デッサンから上へ進級できないものが大勢いたことである。

そんな中の一人に俺も入っていた・・・・・


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