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2008/02/14(木)
大阪市立美術研究所・雑録 D
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戦後の混乱期は普通の人も大変だったのに、況や絵描きなど、どのように暮らしたか想像以上の辛酸を甞めている。
赤松麟作も 1939年、大阪市立美術館で還暦記念回顧展開催して以後、 洋画研究所閉鎖。戦災で多くの作品を失い、路頭に迷っていたのである。
ここに我々似顔絵描きから「春さん」といわれる画家の痕跡を辿ってみよう・・・・
山中春雄は、1919年8月大阪市浪速区元町に生れた。料理屋の生まれとされるが、生い立ちについてはほとんど語らなかったと言われ、詳しい記録は残っていない。
難波商工学校商業本科を中退後、1935年から大阪中之島洋画研究所に学び、1937年に二科展に<少女>を出品、10代にして画家として順調なスタートを切るが、1940年に現役兵として満州へ渡る。1943年に除隊となるが、満州で従軍看護婦長をしていた夫人と現地で結婚し、1945年6月までハルピンに居住、済州島で終戦を迎えた直後、ハルピンで生別した妻子と前後して帰国した。
帰国の年を1946年とする資料も存在するが、本稿では、東京文化財研究所保管の日本美術年鑑作成用資料に拠っている。
帰国後は大阪の闇市で糊口を凌ぎながら、中之島美術研究所の先輩であった小林武夫(筆者の師、行動美術協会第1回展入選、以後没年まで同会所属。)等から油彩道具一式をもらって再び描き始め、1947年の第2回行動展に<子供と向日葵>出品、会友となる。
絵を描くことと生きることの意と介し、妻や長女を数多く描き、当時の山中の人物描法を知る貴重な資料となっている。描くことのゆとりこそまだ見られないが、暗い色調の中に、あどけない表情を丁寧に捉えた、素直な愛情に溢れた作品である。
一転、姉を頼って横浜に移住したのは1948年とされ、妻と長女、長男を喰わすため、絹布に写真から似顔を描く、当時「絹こすり」と呼ばれた仕事で進駐軍を相手に生計を立てながら、行動展への出品を継続し、行動会の重鎮になるのである。しかし、私の師・小林氏も似顔絵仲間も「春ちゃん」の通称でとおっている・・・
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