美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2008/02/26(火) 横塚先輩は男でござる。
横塚先輩は男でござる。



 横塚先輩、懐かしい情報有難うございました。
 研究所の喫茶店は「マロニエ」でしたよ。確かにマダムは上品な方でしたね。そして私みたいな無法者でも許容して頂いていたのですから、すごい人で田川寛一氏ならずともモデルにしたい人でしょうね。
 では研究所の画材店が「瑠樹」あるいは「月光荘」「河内」いずれであったのでしょうか。そこで私は画材を時々くすねておりまして、後であった時全てお見通しでお金はかえしましたが・・・・・
 いずれにしろ研究生には優しく、少しのことは大目に見て頂き、私が出世すれば御礼にいかなければならないのでしょうが、これは無理でしょう。
 ところで館長の望月氏は東大卒後、京大大学院修了。仏教美術・南画研究者、美術鑑定家の第一人者で我々ごときは足元にも近付けませんでしたよ。その方に抗議されるとはさすがtyan1126 先輩は男でござる。

 スケベな東光会の家永喜三郎、片腕の石井元、辻司、私はこの人はたいした人物ではないと思っていると案の定、大阪芸大教授におさまってしまってますね。それにしても行動美術の小林武夫氏が出てきませんね。氏は私と同じ箕面で非常に可愛がって貰いましたよ。それと日展の松田忠氏、この人もなぜか私に好意を寄せてくれましたよ。

 さて横塚先輩の絵「南京虐殺図」、私のホムぺに許可なく貼り付け申し訳ありません。三つのホムペにtyan1126 先輩のアドレスとともに公開していますが良き注文ありましたでしょうか。私は所詮、似顔絵描きですから油絵などや重厚な肖像注文はtyan1126 先輩の方に回すようにします。

 しかしホムペでの注文はあまり期待しないでください。私の注文は大半、大原美術館前でいただいたものですから・・・・

 本当に有難う御座いました。お互いローソクの炎のような年齢ですのでくれぐれも身体には気をつけて・・・・

2008/02/21(木) 大阪市立美術研究所・雑録 J
私が大阪市立美術研究所に入所した頃は研究費は一ヶ月800円であったが、現代は6000円程度になっているらしい。それにしても安い。そして嬉しいのは教授が試験以外、あまり、絵のことで押し付けてこないことと、上はおじいさんから美大目指す若者や設計士など多種多様の生徒かいたことである。
 私の周囲は映画の看板描きの小林君、ピアノをひかせたら良いというほど細い指を持っていた長瀬君、如何にも芸術家らしい、額に髪を垂らした藤田君、大塩平八郎の子孫であった可愛い大塩さん、また色が白いのに毛深い毛を気にしていた小熊さん、丸顔で目のくりくりした米屋の堀江さん。
 これがだいたい私の仲間であった。
 昼になると研究所内の喫茶「瑠樹」で80円の研究所ランチを食いながら、青臭い芸術論に華が咲くのである。

 ああ、懐かしい・・・や。

 写真はその頃大道で詩集を売る私です。「魂より始めよ」は良きにしろ、悪しきにしろ、私の性分なのでしょう(笑)尚、詩集は志集とした記憶あり。

2008/02/19(火) 大阪市立美術研究所・雑録 I
大阪市立美術館・概説

大正 9 年 3月30日、市議会の決議により美術館設立が議決される
4月、設立のための調査委員会が設置される
大正 10 年 12月、住友家が美術館建設を条件に茶臼山本邸寄付を大阪市に申し出る
昭和 3 年 美術館地鎮祭が行われる
昭和 4 年 美術館上棟式
昭和 5 年 鉄筋コンクリート工事が竣工するが、世界恐慌により工事中断
昭和 9 年 美術館工事再開、外装工事が竣工
昭和 11 年 5月1日、大阪市立美術館開館 落成記念展は「改組第一回帝国美術展」
昭和 17 年 阿部コレクション中国絵画の寄贈を受ける
陸軍による接収をうける
昭和 18 年 小西家旧蔵光琳資料の寄贈をうける
昭和 19 年 住友家より関西邦画展出品作の寄贈を受ける
昭和 20 年 第二次世界大戦終戦
連合国軍による接収を受け、事務所を移転する
昭和 21 年 寄寓先の旧精華国民学校内に美術研究所を開く
昭和 22 年 美術館接収解除される
昭和 23 年 美術館での展示活動を再開する
昭和 26 年 博物館法の制定により教育委員会に移管される
昭和 52 年 大改修を行う(昭和54年度まで)
山口コレクション中国仏教彫刻・工芸の譲渡を受ける(昭和53年度まで)
昭和 55 年 田万コレクションの寄贈を受ける
昭和 56 年 カザールコレクション漆工の譲渡を受ける(昭和59年度まで)
昭和 62 年 天王寺公園が有料化される
南館の美術団体展展覧会場の一部がアベノベルタに移転し、それに伴い
本館南館の一部が常設展示展会場となる
平成 4 年 美術館正面 地下に展覧会室を新設し、南館とアベノベルタの美術団体展
展覧会場を統合移転する。南館は常設展示会場となる
平成 9 年 南館2階陳列室を改修する(平成10年度まで)
平成 11 年 南館1階陳列室の一部を改修する

2008/02/18(月) 大阪市立美術研究所・雑録 H
 私事で恐縮だが、儀間比呂志氏の影響で大阪市立美術研究所に入るのである。

 その頃の所長は新世紀会の天王寺卓二氏で氏の祖先は安土桃山時代の堺の豪商。号は昨夢斎。

信長・秀吉の三宗匠の一人であり、本願寺門徒として堺に入り、茶の湯を武野紹鴎に学び、その女婿となった人であった。

 故によくお茶を嗜んでおられたのを記憶している。

 教授陣では行動美術の小林武夫氏、氏は箕面で同郷のよしみでよく面倒を見てくださり感謝している。日展の松田忠氏、東光会の家永喜三郎氏など多数おられたが、後は申し訳ないが忘却した。

 生徒の先輩には大阪芸大教授になる司久、モンマルトルの似顔絵の親玉になる小林善幸、イラスト界の大御所・山名文雄など多士済々のメンバーが揃っていた。

 まず入ると前期といって胸像の石膏デッサン、そして全体像の石膏デッサン。それから人体デッサンに至り、絵画部、彫塑部に進むのである。

面白いのは何年たっても駄目なものは石膏デッサンで前へ進めない事であった。
 何十年も通いつめて石膏デッサンから上へ進級できないものが大勢いたことである。

そんな中の一人に俺も入っていた・・・・・

2008/02/16(土) 大阪市立美術研究所・雑録 F
人間、若い頃の夢は奔放であり、その奔放さ故に自分自身、如何していいか解らぬ時が俺の高校生時代だった。

毎日、破裂しそうな想いを車を無茶苦茶走らせる事で発散していたのだ。

そんな折、難波へ遊びに行って似顔絵を描いて貰ったのが大阪美術研究生だった儀間比呂志である。

確か二百円だったと思うが、氏は俺の顔を喰いつく様に見ては一枚描いては破り、二枚描いては捨て、何時終わるか解らぬ描き方に俺も苛立ってきた。

「あんさん、もういいわ、金払うから・・・」と言うと「君は人生を急ぎすぎており、自分を粗末にしているのではないか・・・」とまた画用紙と格闘するのだ。

俺はこの一言がすごく胸に響き、それからロシアの似顔絵描きニコライ・ガノー等の話になったのは、こちら倉敷・大原美術館の楚である児島虎次郎と日本孤児院の創始者・石井十次の娘との結婚話のときニコライ・ガノーが出てくるので記憶にあったからである。

 その似顔絵は漫画的ではなく、鋭い線で俺の不安、憂い、あるいは愚かさ、野卑等、内面を表出し、己とは何者なのかを問うているようであった。

似顔絵といったら、似ていることが全てであると思っていたが、そうではなかった。その絵は自分の気持ちや内面までも描いてあるようでズッシリと胸にきた。そして自分の思っていた顔と違う絵に向き会ったのは新鮮な驚きでもあった。

その絵から将来に向けての道を必死で見つけようとしている自分にも気付いた。何回見ても見飽きなかった。以後その似顔絵は俺の宝物になり、結局、儀間比呂志氏に感化され、高校を中退、大阪美術研究所の門を叩くのである ・・・・・・

2008/02/15(金) 大阪市立美術研究所・雑録 E
大阪美術研究所の事を調べていたら、面白い「替え歌」にぶつかりましたので紹介します・・・・・・


一. 売ってくるぞと勇ましく
  誓って家を出たからは
  金を持たずにいなれよか
  酒屋の看板見るたびに
  まぶたに浮かぶ妻の顔


二・筆も絵の具もみな切れて
  はてなきエスプリ求めつつ
  進むアブスト、リアリズム
  汚れたパレットなでながら
  明日のモチーフ誰が知る


三. 思えば今日も会場で
  塩たれ絵画とののしられ
  胸に刺さった五寸釘
  抜けども癒えぬ傷ゆえに
  痛む心を誰か知る


四. 絵描きをする身はかねてから
  貧乏覚悟でいるものを
  ないてくれるな草の虫
  塩たれ絵画描くために
  明日も命のあるように


この歌は佐伯祐三と双璧の田川寛一先生の作です。

行動美術協会創立期の頃で佐伯祐三、山中春夫、兵頭和夫など

錚々たるメンバーで、貧乏であっても芸術に情熱を燃やして

いる気持ちが伝わり、涙せずにはおれませんでした。

ちなみに山中春雄は62年愛人であり、パトロンである男に刺殺されています。

2008/02/14(木) 大阪市立美術研究所・雑録 D
  戦後の混乱期は普通の人も大変だったのに、況や絵描きなど、どのように暮らしたか想像以上の辛酸を甞めている。

赤松麟作も 1939年、大阪市立美術館で還暦記念回顧展開催して以後、 洋画研究所閉鎖。戦災で多くの作品を失い、路頭に迷っていたのである。

ここに我々似顔絵描きから「春さん」といわれる画家の痕跡を辿ってみよう・・・・

 山中春雄は、1919年8月大阪市浪速区元町に生れた。料理屋の生まれとされるが、生い立ちについてはほとんど語らなかったと言われ、詳しい記録は残っていない。

 難波商工学校商業本科を中退後、1935年から大阪中之島洋画研究所に学び、1937年に二科展に<少女>を出品、10代にして画家として順調なスタートを切るが、1940年に現役兵として満州へ渡る。1943年に除隊となるが、満州で従軍看護婦長をしていた夫人と現地で結婚し、1945年6月までハルピンに居住、済州島で終戦を迎えた直後、ハルピンで生別した妻子と前後して帰国した。

 帰国の年を1946年とする資料も存在するが、本稿では、東京文化財研究所保管の日本美術年鑑作成用資料に拠っている。

 帰国後は大阪の闇市で糊口を凌ぎながら、中之島美術研究所の先輩であった小林武夫(筆者の師、行動美術協会第1回展入選、以後没年まで同会所属。)等から油彩道具一式をもらって再び描き始め、1947年の第2回行動展に<子供と向日葵>出品、会友となる。

 絵を描くことと生きることの意と介し、妻や長女を数多く描き、当時の山中の人物描法を知る貴重な資料となっている。描くことのゆとりこそまだ見られないが、暗い色調の中に、あどけない表情を丁寧に捉えた、素直な愛情に溢れた作品である。

 一転、姉を頼って横浜に移住したのは1948年とされ、妻と長女、長男を喰わすため、絹布に写真から似顔を描く、当時「絹こすり」と呼ばれた仕事で進駐軍を相手に生計を立てながら、行動展への出品を継続し、行動会の重鎮になるのである。しかし、私の師・小林氏も似顔絵仲間も「春ちゃん」の通称でとおっている・・・

2008/02/13(水) 大阪市立美術研究所・雑録 C
さて「今治水」でお馴染みの「丹平ハウス」が戦災で焼失。

そこで「赤松美術研究所」は大阪市立美術館に移動するのである。もともとここは住友家が神戸住吉に本邸を移し、昭和元年に慶沢園の敷地12,940坪(茶臼山邸)を大阪市へ寄贈した後に市立美術館が完成した所であった。

 この庭園の設計・施工を担当したのは当時の高名な庭師であった「植治」こと小川治兵衛である。治兵衛は山県有朋の無隣庵を手掛けて以来、京都を中心に活躍し、日本の近代造園に大きな足跡を残した造園家で、彼の手になる庭園は国や京都市の名勝などに多く指定されている。

 慶沢園は、大名庭園をモデルとした林泉式回遊庭園である。中島を浮かべた大池を中心に、三方に築山を築き変化に富んだ地形をつくり出している。周辺には園路や飛石、橋をめぐらせ、茶室や四阿・あずまや・が配されている見事な庭園を寄贈したのである。

 私事になるが大道で長年、似顔絵を描いていると「人の身体に潜む利己と厚意の比率、あるいは理性と感傷の比率」を計算して人を見る癖になっているが、この住友にしろ、森平兵衛にしろ、感嘆の声を上げざるを得ないのだ。

 勿論、赤松麟作も感動したであろうし、現に関西洋画壇のため心骨を捧げている。

 私は武田信玄の言った「城は人」であり、いくら立派な作品、あるいは教育材料、医療器具があろうが、それを扱う人間が駄目ならその本体は何等役に立たないと思っている人間だ。

 私が入所した折の美術研究所は素晴らしい教授陣であったと感謝している。

2008/02/12(火) 大阪市立美術研究所・雑録 B
佐伯祐三の師が赤松麟作である。赤松麟作氏の履歴を簡単に書くと・・・

1878年、岡山県津山市生まれ。1897年、東京美術学校西洋画科選科に入学。黒田清輝に師事し、在学中から黒田が主宰する白馬会に出品。1901年、第6回白馬会展で「夜汽車」が白馬会賞を受賞。1907年、大阪梅田に赤松洋画塾を開設する。美術教育にも尽力し、その功績で1948年、大阪府文芸賞受賞。1953年、逝去。

人物の表現に定評があったが、この作品も豊富な裸婦を堅実な筆致で描いている。

・・・・・ということになるがとてもとても交友録になると、ここに描ききれるものではない。

 ここ大原美術館の楚を築いた児島虎次郎始め、青木繁、熊谷守一、山下新太郎、和田三造などとも交友あるし、大阪に来てから
大阪朝日新聞の絵画担当として赴任してきた山内愚僊とともに大阪洋画壇の基礎を形成したのも彼である。

  その後、大正十二年(1923)に大阪市美術協会が発足し、翌十三年四月に、信濃橋西北角の日清生命ビル四階に信濃橋洋画研究所が開設される。そのおり二科会会員に推挙され、洋画壇に新風を送り込んでいた小出楢重を 中心に、黒田重太郎・国枝金三 ・鍋井克之の四人が船場のボンの根津清太郎をパトロンに設立したのも赤松麟作の運動の賜物である。

 ちなみに細川政権の文相が赤松麟作の娘で「男女均等法」を成立させたのも耳新しい。


 画像は彼の妻を描いたものと思われる婦人像

2008/02/11(月) 大阪市立美術研究所・雑録 A
大阪美術研究所創設由来を語るには、どうしても佐伯祐三のことを紹介しなければならない・・・・

大阪中津の寺に生まれる。
北野中学在学中から赤松麟作の画塾でデッサンを学ぶ。1917(大正6)年上京、川端画学校に学び、翌年東京美術学校に入学。間もなく父・弟の死や兄の許嫁の自殺などが重なり、生と死の不安を自我の間題として生きることがならわいとなる。
1921(大正10)年、池田米子と結婚、下落合にアトリエを構えた。1923(大正12)年、東京美術学校卒。美校の同級生と「薔薇門社」を結成し、展覧会を開く。

大震災後の同年11月、妻子および友人と渡仏。翌年パリに着き、グランド・ショミエール自由科に通う。初めセザンヌに関心を抱き、多くの実作に触れた。この年の夏、里見勝蔵とともにその師ヴラマンクをオーヴェルに訪ね批評を乞うが,「このアカデミスム!」の怒声を浴びる。以来オワーズ河周辺にヴラマンク好みのモティーフを探索し、作風は急速に激烈なフォーヴ調へと変わった。

1925(大正14)年1月にはクラマールから市内のリュ・デュ・シャトーに転居。年の半ばにユトリロを見て感動し、パリの街景を描き続ける。同年10月、米子とともにサロン・ドートンヌに入選。

翌年3月帰朝した。同年5月、里見や前田寛治らと一九三○年協会を結成。同年9月の第23回二科展に滞欧作18点を出品し、二科賞を得る。

だが日本の風景によっては自己の造形理念を実現できぬと焦慮し、1927(昭和2)年夏、京城、モスクワを経て再びパリに行く。すさまじい制作力をもって、広告の文字や線を乱舞させる狂燥な画風を試みた後、翌年には≪モラン風景≫を連作、フォーヴの技法によって堅固な構築性を追求したが、肺患に加えて神経衰弱も高じ、同年6月セーヌ県立エブラール精神病院に入院。8月16日、同病院で30歳の生涯を終えた。


おお、俺もアル中で入院しているぞ・・・

2008/02/10(日) 大阪市立美術研究所・雑録 @
大阪市立美術研究所の卒業生が集まって展覧会するので「お前も出品しろ」と言って来た・・・・
 大阪美術研究所は在野でそんな展覧会作っても真の芸術家など育たないと思っているのでお断りした。
しかし、私が九年近く通った美術学校に愛着あるので、雑録風だが書いてみようと思う。

 ここは赤松 麟作が創立した。
彼は岡山県津山に生まれ、明治16年(1883)一家で大阪の中之島に移る。
明治29年(1896)、東京美術学校で黒田清輝に師事。明治35年(1902)、「夜汽車」が白馬賞を受賞する。
明治37年(1904)大阪朝日新聞社(北区中之島3丁目)に入社。
明治43年(1910)、梅田に洋画塾(現:JR大阪駅の北側付近、大正11年(1922)頃、大阪駅の拡張で立ち退く)を開く。
大正15年(1926)心斎橋筋の丹平ハウスに赤松洋画研究所を設立する。
戦後、大阪市立美術研究所で教鞭をとり、後進を育てるなど大阪洋画の台頭に果たした役割は大きく、門下生に佐伯祐三らがいる。
昭和28年(1953)天王寺区で死去。


 私は佐伯祐三から数えて33人目の卒業生であり、愛着のあるところである。



画像は赤松麟作の代表作「夜汽車」

2008/02/09(土) 倉敷にがおえエレジー 題110回
終章 似顔絵師の墓漂碑

 前号で大道似顔絵師は大部分消滅したと言った。すると読者から「お前は消滅したというが東京タワーや時代劇村、あるいはイベント等で幾らでもいるではないか」というご指摘をいただいた。
 違うのだ。俺の言っているのはあくまで大道で似顔絵を描いているもので、檻の中にいれられ、キバやツノを抜かれ、バカなパフォーマンスしている似顔絵描き等の事をいっているのだ。

 思うにこの消滅の傾向は昭和六十年前後より予感するようになり、どうしても大道似顔絵師のことを活字に定着したく、「似顔絵漂流記」を発表した訳である。まさに大道似顔絵師の墓標碑であるが、最後にこの本に付いての評論を書き、この章を終わりたい。


 中央公論「誰でも出会っているのに、何時かその事を忘れてしまう。私達にとって(大道似顔絵師)はそんな存在ではないだろうか。本書は、現在全国に四十人(うち半数以上は東京)いると推定される彼等の生態を丹念に伝えるものである。絵筆の実力はともかく、破天荒ぶりではいずれもひけをとらぬ奇人、変人達のバイタリティ溢れる姿には唖然とさせられる。とりわけ、好奇心旺盛である事おびただしく、大胆かつ人情家、したがって好色な主人公ガタロー(俺のアダ名)が著わした「全国漫遊日誌)は圧巻である。宿も金もない放浪の旅ではあるが(あるいはそれ故にか) 当世これほど豊かな日常を送っている者が他にいるだろうか。と羨望せずにはいられない。もしかしたら、私達がとうに忘れてしまったのは、人間そのものに直面する素直な眼差しなのかも知れない。


 文芸春秋・「似顔絵漂流記」という題名から察しられる通り、ガタローの描いている日記は秀逸だ。どの章にも変わった人物が登場し、内容を面白くしているが、考えように依ってはガタローの訴えたいのは、似顔絵描きから見た社会と人間の実装ではないかと思える。それはガタローが滑稽やユーモアやエロチックの絵筆を駆逐して面白おかしく描いているが、読者の勝手ですまされねものは、ガタローがそれを通して訴えようとしている慟哭や怒りから眼をそらす事である。ガタローが力をそそいで描きだそうとしているのは、これらの登場人物への深い愛情であって、読者はそれを感じてくれれば笑いも涙に変わるであろう。またガタローにとって何処の誰かもわからぬ一介の貧乏画家であり、ヤクザである汚き格好をした者によせる庶民の愛情である。我々と同じく貧乏で不幸で惨めな境遇にありながら、その中にこそ、美しい人間性を見出そうとする探求にこのガタローは賭けているようである。故に高度成長とかいいながら、道具に使われ、身辺を飾りたて、内容空疎な人間達には痛烈な批判の一書になるだろう。

2008/02/08(金) 倉敷にがおえエレジー 題109回
俺は倉敷で長年お世話になっているので余り悪口を言いたくないが、過日、子供連れのお母さんに「清ちゃん、しっかり勉強をしなければ将来ああいう風になるのよ。」と云われた。

母親にすれば子供にいい学校、いい会社、いい結婚、いい子供を生んで最後にいいお墓に入るプロセスを思い描いているのであろう。
しかしこれを手に入れるには大変な抑圧で、これも又、お勉強の出来そうな高校生がこう友人に話しているのだ。

 「いま大雨が降ったら面白いぜ。」「どうして?」「こいつら、困るじゃろ」

 俺はこの言葉が耳に入ったとたん、管理機構が物凄い勢いで社会や学校、はては家庭まで侵入しているのではないかと思った。

そして心に病気を持った人間がすさまじい勢いで増殖している事であり、その病気も徹底した自己中心の病巣である事だ。

極論すれば我々の生活は何処へ行こうとしているのか?

 家庭も学校も営利企業体に乗っ取られ、喰い荒らされ、空洞化されて行くのであろうか・・・


 俺は浅草芸人のように蛇を鼻や口に出し入れしたり、、生きた鶏を喰ってしまうという芸当なと出来ないが、大道でニガオエを描く事に依って人々への反面教師でありたいと願っている。

2008/02/07(木) 倉敷にがおえエレジー 題108回
近年の社会は高度成長という虚構のローラーでならした様に画一化され、人間の生活圏を一部を為してきた(異界)というモノを徹底的に隔離されつつある。

 ちなみにここで云う(異界)とは人間が互いの間のアンビヴァラントな違和のため身動きならなかった人間同士は、共同体異界とに違和の関係を負わせ、代行させる事によって連帯を存在論的に可能なモノとして己達を「人間」への構造化してきた事をさす。

まあ、分かり易くいえば潤滑油だな。

具体的な例としてはアウトサイダー、大道芸人、露天商、ホームレス、破壊坊主、一種のエセ宗教家およぴ芸術家。最近ではノマドといった精神状況の一群も含まれるであろう。

 彼等の存在はあらゆる怠惰な日常性に生きる人達に対して、手垢のついた愛や真実を破壊し、社会に依って飼い馴らされた抑圧を、心の解毒剤として神聖な力に転化する効用はアリストレスのカタルシス(浄化)の思想を紐解くまでもない。


 一見華やかで、良い事ずくめの繁栄の虚構裏には予備軍として底辺で生きる(異人)のあり様を注目することで見抜かれる。

この方法は事実解明の鉄則であって、彼等は現代のカナリアであるのだ。ちなみにカナリアはかっての炭鉱の底にあって身を持って危険を知らせいる。

 しかし行政は衛生が悪いだの、外観がとうなの、都市の美観を損ねるだの基本的には道路交通法で撤去していくのだ。

 結果、全てシスマティックに整備され、人々は己だけの関係性に閉じこもり、社会の共同性は薄れ、孤立化したカプセルはシュミレーション習俗のプレート上でのみ、より豊かな生活や高い学歴を求める脅迫的な「幸せ競争」追い立てられていくのである。

 そこには当たり前の話だが全ての人間がストレスを抱かえ、日本が「いじめ列島化」するのは当然の理であろう・・・・・

2008/02/05(火) 倉敷にがおえエレジー 題107回
俺もその様な印象に捕らえられてたのはの東北の遠野祭りに行った時であった。

この町ではお盆、それに春と秋のお彼岸会には村人達それぞれの檀家寺に集まり、一日死者の肖像画と共に過ごすのだ。

例えばこの寺では日露戦争の佐々木種吉より、日中・太平洋戦争で戦死した軍服姿の英霊。紋付姿のお爺さんやお婆さんから、若くして死んだ青年子女から童子までコンテ、水彩、油絵、絹本、写真等の肖像が数百点、ジッとこちらを見ているのである。その前で村人達は御詠歌をあげ、祖先を供養するのであるが、と同時にこれらの人々が残された我々を守ってくれるという願いが籠めるられている。

 思うに我々は死者を思うことによって、一時的悲嘆よりも永劫の霊的紐帯を求めようとする。それは死者の霊魂と霊的に交渉することで想いを新たにする美しい行為てあり、その行為によって自己を精神的に救済したり、慰謝する事ができるのだ。

とくに感動するのは、死者達があの世で何不由なく生活出来るように米や酒、魚、果物。あげくのを果ては金まで書き入れてあることである。

それは愛しいものがあの世で幸福に暮らしているのだ。と己ずから納得せしめる行為であろう。あるお婆さんは「この寺にくれば先祖代々が何時も変わらぬ姿で迎えてくれる。いずれオレも・・」
 と涙ぐみ、彼女も生きて居る事は死に向かっていることだと悟り、この影の部分で安心立命を得ているのではないだろうか。

2008/02/03(日) 倉敷にがおえエレジー 題106回
俺の知る範囲では闇市時代からの似顔絵師コタロウ爺さんや山ちゃんぐらいである。

とくに山ちゃんに記憶があるのは彼ほど数奇な運命に翻弄された人間だったからである。
彼はアダ名のごとく山手の専売公社・支社長を父に持ち、何不住なく慶応大学・中等部に通学していたが、父親が今で言う汚職に巻き込まれ自殺。以後サラ金に手を出し、追われ新宿で野宿、そのままホームレスになってしまうのだ。
そこで知り合ったのが、円谷という浮浪者風の肖像画家であり、彼の手伝いをしているうちに似顔絵を描くようになるのである。


 ただ彼の特徴は絵を描きながら、客の嫌味を言ったり、ときには叱りつけて得意がって居ることである。

思うにこのスタイルは彼が好んで見にいっていた浅草のコメディアン深見千三郎の影響だろう。この千三郎は「バカヤロウ!この野郎!田舎モン!」というのが芸風で、彼の弟子にはこの倉敷出の長門勇、渥美清、それにビートたけしに到るのだ。

 なぜこんな事を覚えているかというと浅草名物・酉の市で似顔絵の合間にフランス座にいくとエレベータ・ボーイがビート・たけしなのと、その後、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺。

そのテレビを見た山ちゃんが「人間という奴はァ生きている時、死んでいて、死んだ奴こそ生きているような気持ちになる・・・」という言葉を含め印象が強かった日だったからである。

2008/02/02(土) 倉敷にがおえエレジー 題105回
似顔絵の歴史11浅草編

 銀座、新宿、上野、池袋とくれば浅草であろう。

ここは江戸より最大の盛り場で、蛇を鼻から入れて口から出したり、生きた鶏を喰ってしまうというグロテスクな大道芸人発祥の地であった訳だ。
彼等は喰わんが為もあったが、見ているお前だって、これ以上の地獄に落ちるかも知れないし、生まれ変わるかも・・・という仏教的反面教師でもあったのだ。

この世を「厭離穢土欣求浄土」とみなして大道芸人はもっぱら「厭離穢土」を担当し、人々を「欣求浄土」へと、お寺や神社へと救いを求めさせる働きをしているのである。いわば神社仏閣が光輝く浄土や仏の国への入り口であるとすれば、大道芸人は人間の精神世界の闇を幻視させる装置であり、 宗教と芸能が相呼応しあって、浅草のような劇的空間を形作るようになるのである。

ここ出身の作家・池波正太郎氏は「鬼平犯科帳」で浪人の似顔絵師を紹介しているし、明治、大正、昭和初期にかけて砂似顔絵の全盛期であった。 

2008/02/01(金) 倉敷にがおえエレジー 題104回
思うに現代日本は様々な面で画一化が進み、個性ある者、人と変わった生き方をする者を疎外したり、「一定の枠」に嵌め込もうとする傾向がある。

結果、何やらウスペライ、変に眩しい窮屈な超管理社会が出来あがったものである。この事をハイデッガーは「輝ける闇」とも云った。それは輝けば輝くほど、闇の空間は狭くなり、人々の感情を苛立たせると云うことだ。


 俺は前に乞食や大道芸人のマイヨリティを受け入れない町は滅びる、という暴言を吐いたと思うが、昨今面白い事に横浜の野毛や静岡、名古屋の大須、富山で「大道芸フェステバル」というものが催された事である。

しかし、これは市のチンドン屋みたいなもので、管理化された芸人は卑小化され、生気のない見世物と凍結し、芸人が本来持っている土俗的な匂いなど希薄である訳である。あえて言えば芸人を生むのは場末の持つロケーションと人の気質てあり、行政や都市計画で芸人の生まれた試しはないのだ。

それは自己の存在を賭けた、ギリギリの所での表現、その様なモノでないと真実の感動は生まれて来ないのである。


 嗚呼!いかなる文明にも、腿廃期に入っていくと、どのような力を持ってしても支えきれない破綻に遭遇するものである。俺がアル中になるように・・・・


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