美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2008/01/14(月) 倉敷にがおえエレジー 題104回
思うに現代日本は様々な面で画一化が進み、個性ある者、人と変わった生き方をする者を疎外したり、「一定の枠」に嵌め込もうとする傾向がある。

結果、何やらウスペライ、変に眩しい窮屈な超管理社会が出来あがったものである。この事をハイデッガーは「輝ける闇」とも云った。それは輝けば輝くほど、闇の空間は狭くなり、人々の感情を苛立たせると云うことだ。


 俺は前に乞食や大道芸人のマイヨリティを受け入れない町は滅びる、という暴言を吐いたと思うが、昨今面白い事に横浜の野毛や静岡、名古屋の大須、富山で「大道芸フェステバル」というものが催された事である。

しかし、これは市のチンドン屋みたいなもので、管理化された芸人は卑小化され、生気のない見世物と凍結し、芸人が本来持っている土俗的な匂いなど希薄である訳である。あえて言えば芸人を生むのは場末の持つロケーションと人の気質てあり、行政や都市計画で芸人の生まれた試しはないのだ。

それは自己の存在を賭けた、ギリギリの所での表現、その様なモノでないと真実の感動は生まれて来ないのである。


 嗚呼!いかなる文明にも、腿廃期に入っていくと、どのような力を持ってしても支えきれない破綻に遭遇するものである。俺がアル中になるように・・・・

2008/01/12(土) 倉敷にがおえエレジー 題103回
池袋も今は誰も出ていない。

しかし、この地は戦前、日本のモンパルナスと言われた如く、多くの画家が住みついていたのである。御大・熊谷守一を始め曽宮一念、鶴田五郎、安井曽太郎、牧野寅雄、石井鶴三等など、当時の美術名鑑にはこの辺りに住んでいた画家三十四人の名を記しているほどだ。


 余談だが石井はここでシュルレアリズムを基にした「美術文化協会」を設立するのだが、それに参加したのが、この倉敷の三橋健であった。しかし美校出の彼にとっては放蕩無頼、野武士的な彼等に疑問を感じ、それに戦時色が濃くなるにつれ返倉。大原美術館の館員になるのである。その三橋に絶縁状を送った石井も逮捕。結局、転向「エクゼターの反乱」みたいな戦意高揚画を描くのだ。

 このエピソードが象徴しているように戦争で日本のモンパルナスも霧散、故に駅周辺だけに限って云えば文化性も薄く、俺の知る限りでは大道似顔絵師が定着した事は知らない。

 ただ 昭和40年代、全国で似顔絵師が雨後のタケノコの様に出てきた頃、この池袋に宮本三郎に師事していたカクさんと云う男が似顔絵を絵描き始めるのだ。

そこへクリスチャンでアル中の滝氏。トラになって全国たいていのトラ箱を経験、トラ箱評論家の後藤君。定時制高校の美術教師の村田氏。それに例の放蕩絵師の宮ちゃん等集まってきたが、超高層ビル・サンシャインが計画される頃よりホームレスと共に姿を消す。

新宿も同じである。都庁の件で都市空間が整備されるにしたがって彼等は排除されていくのだ。

2008/01/11(金) 倉敷にがおえエレジー 題102回 秋山氏と栗山氏
◎それから◎
 栗山豊さんの訃報が入った。まさかとは思ったが、何度も死線をきり抜けていたので予感はあったものの、その後連絡が取れず、気にしていたのだが。彼は確か和歌山県出身で、時々田舎からカラフルでポップなカマポコを送ってきてくれた。新宿にあった彼のマンションに泊めてもらったこともあった。板橋の葬儀場に行くと主だった友人たちが来ていた。なんでも彼は身内が無く、いとこの女の人が世話をしていたという。赤羽の方の病院に入っていたというのだが、我々も全く知らなかった。色々な事情があったと思うと胸が痛む。この日はなんと彼が尊敬してやまないアンディ・ウォーホルの亡くなった日と同じだという。二〇〇一年二月二十二日、世紀を越えた劇的な日である。帰りに白夜書房の末井昭さんたちと高田馬場で彼を偲んだ。酒が入って誰かが言った。葬儀場で、栗山さんとどこかのおばさんを間違えて、手を合わせてしまったそうだ。私は遅れて立ち会えなかったのだが、あまりにも似ていたという。なんともおかしな話だった。集まった人数は少なかったが、心温まるものだった。後日、青山の360°という画廊で彼を思う別れの会が行なわれた。彼が作ってくれた都知事選のポスターは遺作として永久に輝いている。今頃はウォーホルの似顔絵を描いているだろう。
 ヨウ! 男・栗山豊、見事な人生だった。
 合掌。

2008/01/10(木) 倉敷にがおえエレジー 題101回 秋山氏と栗山氏
秋山祐徳太子「泡沫傑人列伝 知られざる超前衛」より
栗山豊氏の巻
路上のウォーホル "世界を点々とする画家"

 アメリカのポップ・アーティストの巨匠、アンディ・ウォーホルに魅せられ、アメリカまで会いに出かけていく。栗山豊さんは、そんな行動力を持った人である。だからと言って、そのことを自慢したり、名誉欲に生きようとすることは微塵もない。見上げたものだ。
 彼の本業は似顔絵描きである。知り合ったのは七〇年代のはじめ頃だが、その以前から似顔絵描きをつづけ、今も現役である。全国で開かれる祭りはもちろんのこと、あらゆるところにイーゼルを立て、じっとお客を待ちかまえている姿には、なかなかの風格がある。
 七九年、私の第二次都知事選の折りには、彼は自費で選挙ポスターを作ってくれた。金がかかるのでもちろん白黒である。それで充分、今や栗山さんの作品として、全国各地の美術館にコレクションされている。
 それはともかく、彼にはもうひとつ妙なる行動癖がある。全世界への旅に出ることである。旅をすること自体別段当たり前のことだが、それだけではない。彼は旅先から世界地図の絵葉書を送ってくる。そして、そこには毎回、赤い点がひとつだけ記してある。時候の挨拶も近況の報告も全く記されていないが、おそらく自分が今その場所に来ているという印なのだろう。「エアメール・アート」というものだが、しばらくすると、また同じような絵葉書が届く。ある時はヨーロッパから、またある時はアフリカ大陸の中央から。葉書サイズなので正確な場所ははっきりとしないが(おそらく本人もわかっていないのだろう)、世界を"点々"としながら似顔絵描きをつづけている、その足跡証明ということなのかもしれない。それでどうした、という気持ちにもなるのだが、来なければ来ないでやはり気にはなる。便りがあるうちは無事ということなのだから・・・・・・。
 今から七年ほど前、彼は交通事故の被害にあった。幸い一命はとりとめ、何ヵ月かの休養の後に、仕事を再開した。その頃、私が知り合いたちと酔っ払って新宿の街を歩いている時、客待ちをしている栗山さんに偶然出会った。酔っ払った友人が、「よう、画伯!」と大声で叫んだので、私はその友人をたしなめた。栗山さんの方は、照れくさそうに下を向いていた。我々は彼を尻目に、素早くその場を立ち去ることにした。そうすることが彼に対する礼儀ではないか、私にはそう思えたからだ。
昨年の十月、私は、上野の森美術館の一角で展覧会を開いた。テーマは「岡倉天心の逆襲」というもので、天心のコスチュームを身にまとい、公園の中を歩いていると、何か明治を背負っている感じがした。そんな時のことである。ふと見ると、西郷さんの銅像へ向かう階段の途中に、栗山さんがいるではないか。驚いたことに、イーゼルに貼り付けられた有名人の似顔絵の中に、私の都知事選のポスターがある。すかさず私は彼に駆け寄り、岡倉天心の格好をした姿を描いてもらった。人だかりがして描きづらそうだったが、出来上がった絵は文句なしの名作だった。
 今年の夏、栗山さんは、友人の個展を訪れた際に突然倒れたという。救急車で病院に運ばれたが、血圧が異常に高く、しばらく危険な状態がつづいたらしい。それでも難は逃れ、再び現役に復帰、あちらこちらの祭りに出没している。
 そんな彼は、今でも私のことを「夜の東京都知事」といって慕ってくれている。感謝。
 似顔絵描きに徹する彼こそ、西郷どん、よか男でごあす。
 なお、栗山さんは、KKSKIPより『似顔絵ストリート』という本を出しているので、一読あれ。



下の写真の右から三人目が栗山氏。これは「宏プロ」のメンバーで真ん中のママは我々の良き理解者であった。

2008/01/09(水) 倉敷にがおえエレジー 題100回 秋山氏と栗山氏
路上のウォーホル・栗山豊/画廊亭主の徒然なる日々

2月22日のアンディ・ウォーホルの命日に書いた通り、史上最強のウォーホル・ウォッチャーだった栗山豊さんの収集した膨大な資料のほんの一部ですが、4月21日からの「アンディ・ウォーホル展」で公開します。

アンディ・ウォーホルについては、説明するまでもありませんが、栗山豊さんについては詳しく紹介せねばなりますまい。
最もふさわしい紹介文をブリキ彫刻で名高い秋山祐徳太子先生が書いています。

早速電話して、ホームページで全文を転載する許可をいただきました。

秋山祐徳太子先生は2002年に二玄社から「泡沫傑人列伝 知られざる超前衛」という快著(怪著)を出されています。
この本、今回の展覧会でも並べて売ります(1575円)が、有名無名50人の泡沫傑人が取り上げられ抱腹絶倒の人物記になっています。栗山豊さんもその一人。

もともとは「週刊読書人」に連載されたものですが、連載時には栗山さんは健在でした。単行本になったのは栗山さんの没後で、秋山先生がその訃報の顛末を「それから」として加筆されています。

掲載した写真は同著からで、第二次都知事選のときの車内演説会のもので、右が栗山さん、左が秋山先生です(渡辺克己撮影)。

2008/01/08(火) 倉敷にがおえエレジー 題99回
栗山を似顔絵の世界に紹介したのは、銀座での先達・宇佐美と国さんであった。宇佐美は非常に誇りを持っていて、池田万寿夫を追うぱらったのも彼であり、手塚治虫を「人間を写実的に描けなければ似顔絵は駄目だし、絵物話の作家にはなれない」と又、追ぱらってしまうのである。

 国さんはラムネの底のようなメガネをかけたオカマみたいな男だったが、児童雑誌に表紙画を描いていたせいか絵には一言居士で、やはり手塚を相手にしないのである。しかし、人間何が幸いするか解ったものではなく、手塚は東京を諦め帰阪、「新宝島」と云うストリー漫画を自費出版 それが隠れたベストスラーとなるのだ。

後年、宇佐美や国さんは「俺は手塚の先輩だ!」という様な世迷う事を吹帳する始末なのである。

 ところでこの銀座には栃木・益子出の小林氏。福岡・旅館の息子の斉藤。広島・呉の金融業の畝氏等が居たと思う。とくにこの中で小林と宇佐美・栗山の確執は有名で、宇佐美とは今戦争末期、海軍の少年特別攻撃隊の一員だったというが小林曰く「奴のは出鱈目だ。何故なら所属部隊名と部隊番号でさえ言えないのから・・・・」と云った言葉が宇佐美の耳に入ったからである。

栗山とは映画女優・内藤洋子の妹・やす子「歌手」の取り合いが端を発しているらしい。女は女に男は男に競争心があると知っていたが、乞食エカキの競争心に妙に感動したことを覚えている。

 その点、釣りと酒を愛した武さん(大阪)や信ちゃん(長崎)は素直なものだった。二人ともニガオエ以外作品らしい作品は何も残さず、怨念も残さず、酒で幽冥境に遊び逝ってしまっうのだ。自称・慶応ボーイと言っていた安部氏も、この倉敷出の竹槍氏も生死不明で、結局、最後まで頑張っていた栗山も消滅し、銀座から大道似顔絵師は壊滅したのだ・・・・・・

2008/01/07(月) 倉敷にがおえエレジー 題98回
勿論こんな馬鹿げた事ばかりしていた訳ではない。

彼は常にラジカルで例えば奇抜なブリキ彫刻で知られる前衛芸術家・秋山佑徳太子等と友達であり、その彼は若い頃、二宮金次郎の格好で街頭に立ったり、グリコのランニングシャツ姿で広場を駆けてみたり、突飛なハブニング活動で勇名を馳せ、70年代には政治のポップアート化目指して都知事選に山高帽で立候補するのだ。その時の選挙ポスターを手掛けたのがこの栗山で、そのポスターは実に驚くなかれアンディ・ウオーホル張りだった
訳だが、彼は別に単にウォホールのディタレントではなく、ウォーホルに会いにアメリカへ行って、その体験談を本に纏めているのである。

また彼は[ポートレイト]と言う異色人物ばかり集めたニガオエ集を出版したり、「聖教新聞」には時の有名人の似顔絵とコラムを連載していた。、と同時に「肉体と概念の冒険」の名のもとに日本はもとより世界を波状移動し、彼のハガキと写真で世界のストリート・アーチストを知るようになるのである。また昨今は彼の仲間と共に「東京零産倶楽部」を発足させ季刊誌であったがネオ・タダ的新聞を発行。前衛芸術家や異色芸術家に送り続けるのである。

 それは作品や作家いう安穏とした連中への挑戦であり、体制べったりの芸術という終焉に立ちあっているのだいう紀州犬の遠吼えであったかもしれない。しかし俺にすればその終焉の向こうに、まだ明確に名付けられていない作品や作家に代わる何かが現れてくる待望の矢先だったからである。

2008/01/05(土) 倉敷にがおえエレジー 題97回
過日、訃報が突然舞い込んで来た。

栗山君が新宿・青梅街道で交通事故に遭い即死というのだ。別に俺の場合、年も年だし、生命のギリギリの修羅場で生きている連中と付きあっているので又、一人ピエロが死におったか、と言う具合にすぐ忘れてしまものだが、今回は一寸大げさだが21世紀をリードする旗手に死なれたかという気持ち多大であった。

何ゆえなら彼は東京芸大中退後、文化学院講師をしていたが「芸術は教えるものでもなく、教わるものでもない」と辞めっちまって、この道に入ってきたのである。俺も美術学校九年行き、教えて貰ったのはセックスだけだったから、その気持ち良く解かり銀座、新宿、上野公園、あげくは全国の祭りで一緒に似顔絵を描き破廉恥、痴愚、朦朧、卑猥等の生を踊り続けた仲であったからである。

 勿論こんな馬鹿げた事ばかりしていた訳ではない。彼は常にラジカルで例えば奇抜なブリキ彫刻で知られる前衛芸術家・秋山佑徳太子等と友達であり、その彼は若い頃、二宮金次郎の格好で街頭に立ったり、グリコのランニングシャツ姿で広場を駆けてみたり、突飛なハブニング活動で勇名を馳せ、70年代には政治のポップアート化目指して都知事選に山高帽で立候補するのだ。その時の選挙ポスターを手掛けたのがこの栗山で、そのポスターは実に驚くなかれアンディ・ウオーホル張りだった
訳だが、彼は別に単にウォホールのディタレントではなく、ウォーホルに会いにアメリカへ行って、その体験談を本に纏めているのである。また彼は[ポートレイト]と言う異色人物ばかり集めたニガオエ集を出版したり、「聖教新聞」には時の有名人の似顔絵とコラムを連載していた。、と同時に「肉体と概念の冒険」の名のもとに日本はもとより世界を波状移動し、彼のハガキと写真で世界のストリート・アーチストを知るようになるのである。

また昨今は彼の仲間と共に「東京零産倶楽部」を発足させ季刊誌であったがネオ・タダ的新聞を発行。前衛芸術家や異色芸術家に送り続けるのである。

2008/01/04(金) 倉敷にがおえエレジー 題96回
最後は銀座だ。
ここからは日展審査員・鬼頭鍋三郎や日本画の重鎮・加山又造。あるいは追い出されたものの世界的版画家になった池田満寿夫氏等輩出している。
 故にここでやっている連中は「芸術の中心地である銀座でやっているんだぞ」という変なプライドがあって、他人を寄せ付けない雰囲気があり、どうも肩に力が入る所である。


 福永氏をトップに群馬の小林氏、広島の宇佐美氏、この倉敷の竹槍氏、愛媛の国さん、静岡の安部氏、和歌山の栗山君、大坂の武さん、長崎の信ちゃん等々で固めていたが「銀ブラ」など死語と化した現在は誰も出ていない。まさに大道似顔絵師もヒッピーも悲劇の鳥、トキのごとく絶滅寸前にあるのだ。

 あえて名前だけ羅列したのは、彼等の生き様に対する鎮魂歌である事を申し述べ、次号で総括したい。

2008/01/02(水) 倉敷にがおえエレジー 題95回
ではここでの存在感、つまり奴が居らないと新宿が夜も明けないという新宿クマ五郎から紹介しょう。

 本名・松山といって学芸大卒。卒業と同時に似顔絵でアメリカ一周する。アダナのごとく顔は熊みたいで腕力も強く、度々派手なパフォーマンスをやり、我々を恐れさすが、ただ行動が落語に出てくる八つあん、熊さんタイプの所が救いであろう。

 聖徳太子みたいなヒゲがご自慢のヒョウ介君はビールなら十本くらい軽く平らげる薩摩隼人で、女房・烈子君も似顔絵を描き(新宿ではない)二人で数千万円稼いだというが、後、二人は別れて烈子はカナダ人と結婚した。

 この本の冒頭に出てくる「タイ焼きソング」のデザインで数千万円を手にする田島司君だ。彼もまた女房と決裂。他の女とロッキー山脈を縦走、スッカラカンになるのだ。

 杜の都・仙台出の大友君は名のごとく身体は大きいが似顔絵は反対に小さく緻密に描いていた。平塚七夕で倒れる。
 やはり仙台出のキムは母親が彼を産み落とした後、アメリカ軍人と結婚。その関係より渡米、侍姿で似顔絵描いたり、占いをしたりしていたが、最近は新興宗教の教祖に納まっているという。

 似顔絵を描いていればよいものをアクセサリーの方が儲かると転身、結果、場所取りの事で喧嘩、人を傷つけ裁判沙汰になったバカ天。

 その他「美少年」がアダナの大和田君。スケコマの斉藤、ガイコツの斉藤、イラストの斉藤での三斉藤。足は悪いが気の優しい小野寺君。朝鮮人でオチョコチョイの加瀬君、ゴッホ君等一杯いて、夫々面白いエピソードがあり、俺に取っても懐かしき人々であり、余白の関係上割愛するのが残念で偲びない。とにかくここは出入りの烈しい所であった。

2008/01/01(火) 倉敷にがおえエレジー 題94回
そうだ。確かトロン君も居ったような気もするが、彼はこの岡山出身で後「純粋単細胞的思考」という本をものにする。
読者はこのトロンと言う名で想起されるように、彼等は「宇宙食」と称してピリン系のハイグレランを焼酎とともに飲んでいるから、誰かが持ち込んできたラジカセにサンフランシスコ・サウンドでもセットされようなものなら熱狂的に踊り狂うのだ。

 その頃の人間は今の人間のように自分達だけの関係性に閉じこもり、精神まで管理された人間と違ってまだ人間臭かった。故にギャラリーもヒッピーのパフォーマンスに対してでも興味を示し、踊りの輪中に入って、自分も会社をドロップアウトしょうかと本気に迷っている奴も出てくる時代だった。

 思うにその頃が新宿の文化的な爛熟期だったのであろう。戦後の闇市時代からの庶民文化のパワーが、権力管理の圧力に潰され、根こそぎされていく最後の花を醇爛と咲かせていたのだ。


 さて当時の新宿には、ゴールデン街に闇市時代からのベテラン似顔絵師数名いたが、我々のやるのは歌舞伎町通りの入り口、大和銀行前であった。

 ところで何処でもそうだが、容易に商売はやらせて貰えない。何がしかの手続きがいるのである。俺の場合は清原天皇の紹介と関西へ来たおりには、我々の場所でやってもよい、という交換条件を出したからだ。とくに女似顔絵師を嫌うのは、女に客を持っていかれる危惧とその女の事でトラブルが発生する恐れで、ここは女人禁制の山なのである。


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