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2007/09/28(金)
倉敷にがおえエレジー 題53回
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それは今の社会組織が分業化するにつれ、人は精神、身体に異常きたしつつあり、それを「乞食エカキ」は救い、人に潜む情念の一種の代行行為をする事によって人を解放する。ゆえに「打ち込み行為や大道エカキ」は今の社会が必要とせずとも、異常をきたした人々が我々の存在を要求していると言うのである。 世の中とはそういう無名の人も必要であり、それを似非ブンカ人どもは見て見ぬふりをする。 だいたい文化や芸術は根本的に失った人間性を呼びさまし、取り返してくれるモノでなければならない。 人間が進歩し、国が繁栄し、文化が向上すればするほど人間性を失っている。その人間を何処で人間性に呼び返し、立ち返らせてくれるのか? その堕落する奴、あるいは色んな人間性を失っていく奴に便乗していくモノであったら、それは文化、芸術の形をした最も悪い文化、芸術ではないのか、と悲憤慷慨だ。
なるほど前回で紹介した乞食の「京橋の吉」にしろ、息子が和尚に薫育された時「アンタの手元では、子供が人間になりません」と引き取るのもここの所であろう。 吉にすれば、和尚に預けた日から、やたらに知恵を付けられ、利口になるよう教育を授ける。負けてはならない、勝たなければ為らないと見栄や優越感を叩き込む。人を押しのけろ。騙せ。人を信じるなと諭させる。肩書きをつけろ。財産を持て。偉くなれと吹き込まれる。
こんな事は宮ちゃんや吉にすれば余計な節介なのだ。
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