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2007/09/15(土)
倉敷にがおえエレジー 題41回
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自戒を込めていうと田舎で生活していくには三っつの演出が必要だという事だ。一つは、自己顕示欲の否定。二つは不器用演技。三つは弱者演技であって上記の三人にも又、俺にもなかったという訳である。結果的には彼等三人は闘うに価する相手というより、己の肥大化したルサンチマンを対象に命を徒労したといっても過言ではない。ローソクの周りを跳びまわる蛾は結局、火に魅かれて己を焼き滅ぼしてしまうように、自己幻想に取り付かれのだ。 俺も隠居所で死人の肖像画を相手に伸吟していると、ときには全ての人間が敵と感ずるような脅迫観念に陥ることもある。人々に向かって思わず大声で呪いの言葉を吐いたり、あるいは何か異状な事でも仕出かしたくなるのだ。 考えてみると誰しもがこの「魔の一瞬」がまったく訪れないとは言い切れなく、犯罪人と我々とは無縁の衆生ではあり得ない。ときには「罪と罰」のラスコリニコフに、「異邦人」のムルソーになり得るのだ。 人は何故犯罪をおかすのか?等、俺にはたいそれて答えられないが「裸のサル」であった人間が背負っていかねばならぬ永遠の命題だけは確かなようである。 草に霜、月に群雲、花に嵐、人に罪、これらは皆ものの哀れのバリエーションだ。ようするにヤヌスの双面の一方が善人面なら、こちらを振り向くもう一つの顔は悪人面であることを見据えなければならないのだ。ゴキブリを愛しながらフマキラーをも尊敬するトータルな人間になるしかないのだ。それだけ生きるということは疲れるということである。アア・ァと感嘆詞をあげてる暇もないという事で読者諸氏よ回れ右したまえ。俺も周り右する・・・・
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