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2007/09/13(木)
倉敷にがおえエレジー 題39回
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高瀬舟、夜汽車、俺は霊柩車で・・
中国のチンプンカン、インドのオッペラボウ、オランダのスッペラボン、朝鮮のムチャリクチャリのごとく、俺のサブタイトルも滅茶苦茶だ。しかし、別に夏炉冬扇でもない。先ず高瀬舟とは倉敷代官所焼き討ちの首謀者・立石孫一郎が津山から倉敷へ出る手段として利用する。夜汽車は津山生まれの洋画家・赤松燐作が東京美術学校へ入学する折り、といいたい所だが残念ながら津山線は昭和19年中国鉄道を買収、発足した訳で無理があるようだ。ただ彼の代表作が「夜汽車」故、まんざらこじ付けでもなかろう。で俺の場合だ。 その頃死人の肖像画を描くのは止めていたから金がない。赤城の山に籠もった忠治ではないが、山にいればいるほどジリ貧になる。目的が浮かばないからといって石地像でもあるまいし、ジッとしている訳にはいかぬ。そんな時、倉敷美観地区の老刀自が「空家かあるからいらっしゃい」と言って下さるのだ。アル中の乞食エカキに見込みを付けて下さるのだ。と、同時にジャズ喫茶「邪美館」で働いていた青年が「廃車寸前の霊柩車なら空いている」と言ってくれたのだ。彼は葬儀屋の息子だったわけだが、俺にすれば荷物は絵の道具と本しかないのだから正に三途の川の渡し舟だ。いわんや引越しを霊柩車でするのも乙なものではないか。という訳で判字ものみたいなサブタイトルにある程度納得して頂けたであろう。しかし、これでは、読者に対して不親切というものであろう。故に続ける・・・・
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