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2007/09/10(月)
倉敷にがおえエレジー 題36回
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ところでその頃の日本は東京オリンピックが終わり、万博に向け高速道路、ビル、新幹線等の建設ラッシュで日本列島がのたうち廻っていた。その反動であろう。小田実氏がベ平連結成、反日共系学生、反戦デー新宿駅占拠。機動隊、東大安田講堂の全学共闘派を強行排徐、樺美千子氏死亡。
とにかく何が起こっても不思議ではない時代で、それが新宿の文化的な爛熟期だったのだ。管理社会の圧力に潰され、根こそぎされていく、最後の花を咲かせていたのだ。故にどんな下手くそなニガオエ描きにも、常時三・四名以上の客が付いた者だが、その前を今までの乞食でもないフーテンでもない、一種独特のムードを漂わせた若者達を眼にする。
これがサカキ・ナナヲ、加藤鋭、山尾三省氏を中心にする我が国でのヒッピー・ムービメントの始まりだったのである。しかし、豊潤たる花は落ちるのも早い。決定的にしたのは68年の「新宿騒乱事件」で警官は市民や学生に襲いかかり、フーテンや浮浪者を検束していった。
これを期にニガオエ描きの大半が旅に出、ヒッピー達も新宿から出ていき、新宿から人間の匂いが完全に消えたのだ。「乞食の消えてしまった町は、もはや人間もなく、祭りもない」と劇作家・別役実氏は言ったが至言で哀れにも新呪区と為り果てるのである。
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