美観地区から大道絵師のメッセージです。
箱の中でいくら立派な芸術活動しょうと、学ぼうと何等、この病的社会には不毛である。
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2007/09/29(土) 倉敷にがおえエレジー 題54回
それに宮ちゃんは「美観地区」。
この言葉はどうも腹にダブつき気味でただの「白壁通り」で良いのではないかと言う。

 それは「美観地区」とはなんとなく不美人や身体障害者が歩くのに抵抗を感ずるという用語であり、「徳、狐ならず。必ず隣有り」と言った大原孫三郎氏の意に反するからである。

 禅にこんな話がある。ある和尚が坊主に「庭を掃除しろ」と云い付けた。ところが幾ら掃除しても心良い返事がなく困っていると、和尚は掃き集めた落ち葉を掴み、数辺投げ捨て「これが掃除というものじゃ」と。

 まさにこの落ち葉が差別されたものであり、不人であり、芸術とはこの不から生まれるのだ。不の排除された社会は不毛であり、健康で品行方正で正義ただしいのは無情で非情だからである。

その証拠に「伝統建造物群保存地区」より「美観地区」という名を冠したとたん、役人は我々を排除し始めるのである。そして驚いたことに倉敷川を埋め立て駐車場にしてしまえ、という論理なのである。

 いま役人が後生大事にすがりついている「美観観光」なるものが、役人の軽蔑する「醜」「俗」の下積みの働きなしには、一刻も生き永らえることを知らずして・・・・・

「何?倉敷にチボリ公園。奈良のドリームランドの二の舞で、世界中に笑われるのが落ちさ」と言ってー

 宮ちゃんは旅に出た。また人間関係の醜悪さに耐えられなくなったのであろう。残された俺はお役人の前に身を縮めるだけ縮めて、頭を下げた。その頭に無量なモノが挫け、砕けた・・・悲。




 次回 乞食エカキと白衣の天使のラブロマン

2007/09/28(金) 倉敷にがおえエレジー 題53回
それは今の社会組織が分業化するにつれ、人は精神、身体に異常きたしつつあり、それを「乞食エカキ」は救い、人に潜む情念の一種の代行行為をする事によって人を解放する。ゆえに「打ち込み行為や大道エカキ」は今の社会が必要とせずとも、異常をきたした人々が我々の存在を要求していると言うのである。
世の中とはそういう無名の人も必要であり、それを似非ブンカ人どもは見て見ぬふりをする。 
 
 だいたい文化や芸術は根本的に失った人間性を呼びさまし、取り返してくれるモノでなければならない。
 人間が進歩し、国が繁栄し、文化が向上すればするほど人間性を失っている。その人間を何処で人間性に呼び返し、立ち返らせてくれるのか?
その堕落する奴、あるいは色んな人間性を失っていく奴に便乗していくモノであったら、それは文化、芸術の形をした最も悪い文化、芸術ではないのか、と悲憤慷慨だ。

 なるほど前回で紹介した乞食の「京橋の吉」にしろ、息子が和尚に薫育された時「アンタの手元では、子供が人間になりません」と引き取るのもここの所であろう。

 吉にすれば、和尚に預けた日から、やたらに知恵を付けられ、利口になるよう教育を授ける。負けてはならない、勝たなければ為らないと見栄や優越感を叩き込む。人を押しのけろ。騙せ。人を信じるなと諭させる。肩書きをつけろ。財産を持て。偉くなれと吹き込まれる。

 こんな事は宮ちゃんや吉にすれば余計な節介なのだ。

2007/09/27(木) 倉敷にがおえエレジー 題52回
彼は東京・日野出身で新選組副長・土方歳三と同じ石田村である。
 現在尚、土方家の子孫は「石田散薬」という打ち身の薬を製造販売しており、とくに土用の丑の頃になると、河原に自生する朝顔に似た草を村中総動員で刈り取るのだ。
 宮ちゃんはその草にトゲがあって、それが嫌さというより村人のトゲに耐えられなくなって東京の美術学校に脱出、金のないパターンで似顔絵を描き始めるのである。厭人癖に取り付かれた男が似顔絵を描くのも奇妙な話だが、彼は常に似顔絵描き連中と付き合おうとはしなかった。
 俺が彼を始めて知ったのは京都・祇園祭りの時で夜、皆で本能寺の縁側で寝るのだが、彼一人離れて寝ているのだ。
 「皆と一緒にどうして寝ないか?」俺が問うと「やまあらしシレンマ・・・」まさにミミズが腹痛をおこしたような哀れな声で呟くのである。
 「山嵐ジレンマ」とは哲人・ショウペンハウエルの寓話であって、山嵐にトゲがあるゆえ、寒い時、お互い身体を暖めようとすれば傷が付く。ではといって離れすぎると寒い、そこで傷つけず、離れすぎずという距離を人間の生き方に普遍したことだが、こういう人を喰ったような事ばかり話するので皆に疎まれるのかも知れない。
 しかし、彼にすれば己の内部や精神を、さらに言えば人間的嫌悪まで偽って、人と付き合ったりする行為が欠落しているのであろう。結果、人と争わず喰うとすれば打ち込みするしかないのであろう。

 それからの彼は誰にも束縛されず、束縛せず、ただ天意と腹加減にまかせ、白い雲のようにフワフワと漂う生活を続けるのである。
 ときには悪酔いしたサラリーマンに唾を吐きかけられ「お前らは俺達が働いているから、生きられるのだ!」と絡んでくると「俺たちがいるから世の中が面白いのだ」と開き直る図太さを身につけて来る。ここで極論かも知れないが宮ちゃんの意見を聞いてやろうじゃないか。

2007/09/25(火) 倉敷にがおえエレジー 題51回
ニガオエ浮浪雲・宮ちゃん

 「スケッチブックをこ脇に抱え、住家構えぬ渡り鳥。ノレンをくぐって笑顔を見せて、エーお客さん、一枚いかが?暗い酒場の片隅が、涙で汚れたオイラの花道。義理もある。人情もある。心に哀しみ尽きねども今夜も笑顔で描きます。ああ、似顔絵人生さすらいは、酌めどもつきぬ酒ににて、終わりを知らぬ旅まくら。ああ、今夜はヤケに冷え込むなァー」


 ニガオエ浮浪児こと宮ちゃんは、この歌のように北から南までニガオエの打ち込みをして露命を生きながら得ているのである。
 打ち込みとは飲み屋などにスケッチブックを持ち「ニガオエ描きませんか?」とひもじい声で酔客やホステスを描く、まあ言えば夜の首狩りエカキだ。
 俺も昔、エカキくずれのキド・グンジという男に誘われ、新宿・歌舞伎町の飲み屋を首狩りした事あるが、キドは「ここでサ、池田満寿夫もニガオエを描いていたんだぜ」と言いつつ側の水道で頭を濡らすのだ。
 なんでもその方がママや酔客に哀れを催させ、結構描かせてくれるというのである。たしかにその日は運が良かったのか、打ち込みとはこんなものなのか、出鱈目な絵でもチップまでくれるのだ。
 しかし、嫌悪と泥酔とともに、二度と酔客や裏で赤んベェしている狐ママに、媚を売る幇間的演技はやろうと思わない。俺には描こう、描いてもらおう・・という云わば自由契約ができる大道の方が性分にあっているようだ。

 宮ちゃんこの打ち込みの方がいいのか、冥土までこの旅を続けるつもりらしい。

2007/09/24(月) 倉敷にがおえエレジー 題50回
また乞食にしろ実にユニークなのが居たと言うのだ。

たとえば「コロンの中村さん」でコロンとは木切れの事、それを拾い集めて売り歩いたのだが、その風体は頭の頂きだけ髪を残し、チックを塗り付けたところは河童そっくりで、その河童、ときにはボロのフロックコートに山高帽姿で人生論や政治論をブッたと言う。
「作蔵」もまたモジャモジャ髪で腰に大瓢箪、扇子を片手という異様な風袋だが、違うところは一連の数珠を光らせ、それに物を貰うと太陽に向かって「ユウーツ」叫ぶことだ。それは太陽の光で生かされている事への感謝感激の一つの儀式であり、貰った物も仲間に呉れてやる事において、人と共に生きる喜びを悟っていたようで、人々より「乞食の哲人」と冠せられるのである。

 「京橋の吉」と言うのは若いときから悪党で鳴らしていたが、悟るところあって悪とはサッパリ手を切って乞食に更正?する。彼には子供がいて和尚が寺に子供を引き取り薫育にあたろうとするが、吉は「あんたの手元では、子供が人間になりません」と引き戻してしまうのだ。なんと留飲が下がる話ではないか。
他にも「シンさん」やミノ金」等バスク老は話続けるが、俺の息子がはち切れそうで即心成仏させてやらねばならぬ。あわてて便所に駆け込んだ・・・・

 その間にも観光客は相も変わらず賑やかな笑い声をあげ、来ては去っていく。バスク老の話す昭和初期から比べると確かに生活の匂いは失われ、観光だけの場所に変わってしまったかも知れない。しかし、冷やしアメや焼きイモ屋は健在であり、「作蔵」みたいな豪快な乞食には出喰わさないが、何時もニコニコ笑っている「マドンナ婆さん」や塵箱のコーヒ缶に吸殻が入っているのも知らずに飲んで、苦い顔している「ノメリ爺さん」等はいる。
 如何に時代が変わろうと国家の論理からはみ出し、沈黙の中にジッと一点を見つめ涙している瞳には幾らでも出会える。

ただ、こう言う人々を見て笑うのは勝手であろう。しかし、勝手で済まされぬのは、人間集団から離脱して世間の無常の向こうに自己を放つことが生の本源に帰する生き方とするならば、権力や金の力が人間の値打ちを決める根拠となっている社会も又、反人間的な生き方と言えるのではないか。

 いわんや人と人との間に通い合うようなモノを少しずつ侵蝕し、奪い去ろうとしている時代においておだ。

2007/09/23(日) 倉敷にがおえエレジー 題49回
バスク老がやって来た。
記憶の良い読者なら第三回で登場するベレーにワシ鼻の親父だが、鞄からウイスキーを取り出し「チート、やらんとオエン」と俺の顔見て「山下清ジャー」とおっしゃるのだ。
なるほど「ボ、ボクはルンペンするのがクセで、これはク、クセだから、治らない」という所はそっくりなのかも知れないが、その山下清も昭和三十一年、精神科医でゴッホ研究者の式場隆三郎氏に伴われ大原美術館に来ているである。

 例のランニングに団扇を使いながら独特の口調で「これは二等兵、これは中佐」と、名画に軍隊の位づけで品定めしていき、シニャックの点描画の前で「これが大将だ・・」と言ったので、報道関係者が゛ッと笑ったらしい。関係者にすれば一番値の高いグレコを指摘してほしかったのであろう。

 その頃バスク老によると美術館の前を定期バスが走っていて、入館者は絵の愛好者程度で閑散としていたと言う。「ワシの少年頃はもっとジャー」その言に火を注いだのか老人特有の回想談が日も月をも舐める勢いで始まるのだ・・・

 バスク老曰く少年時、つまり昭和初期には倉敷川を汐入川と呼び、満潮時にはクラゲが泳いでいたそうである。路上では屋台の上から水蒸気を「ピイーン」と鳴らすキセル掃除の「らお屋」下駄の歯を修理する「なおし屋」漬け樽を大八車に積み「シンコー、シンコー」と連呼する「漬け物屋」餅菓子を売る「カリカリ屋」という物売りの人達。それに虚無僧や手品師、淡路人形や猿回しの門付けや大道芸人が徘徊していたそうだ。

 また向市場にあった倉敷劇場に芝居がかかった時などは、厚化粧で扮装した役者が人力車に乗り その前を「町廻りジャー」と叫びながらチンドン屋が先導する。「チンチンドンドン、チンドンドン、もうひとつおまけでチンドンドン。スッテンコロンデ、ドッコイショ・・」そういう囃子をはやしたてながら何処までも付いて行ったとバスク老は目を細める。

 ところでその倉敷劇場は田舎には稀に見る本格的な劇場で、初代中村雁治郎が来演したり、藤原義江の独唱会の公演があったり、倉敷はその頃より文化的な土壌があったものと見える。

2007/09/22(土) 倉敷にがおえエレジー 題48回
美観地区に集う人々

 春風駘蕩まことに気持ちの良い日で、この美観地区にも旗を先頭にいにしえのお譲さんを含め観光客がどんどんやって来る。記念写真を撮り、有名な絵を見、ドォーツと流れて行く。つかの間の幸福の繁栄をドサッと持ってきて絵にして見せた点景である。いつものごとく今橋上でバスガイドの説明が始まった・・・・

 「この建物は大原家の別邸で、緑色に輝く屋根より緑御殿と呼ばれています。大正十五年に昭和天皇の行啓があり、この橋改築、児島高徳?に龍と菊の御紋章を大原孫三郎氏が彫らせたという事です。なお緑御殿は昭和天皇や前ニクソン大統領が御宿泊。なんでもあの瓦は一枚八千円「現在三万円」・・・・

ここまでくると観光客はどよめきバスガイドが得意気になるところであって、別に高徳ではなく虎次郎がデザインし、甥の彫刻家・紀和氏が彫ったとしても関係ないのである。観光客にすれば平常のあらゆる哀しみや心配を忘れ、太平の逸楽の気持ちになれば良いのである。況や俺にとっては良き金ズルで、優曇華の花なのだ。


 では何時頃から倉敷に観光客が大勢参集して来たのかと言えば昭和四十七年・新幹線が岡山まで開業した事もあるが、都会にコンクリートの画一化が進むにつれ、古い民家、白壁、古城などの良さを見直した事。と同時に大原美術館の名画盗難事件だ。コローの「ナポリ風景」ルオーの「道化師」モローの「雅歌」他三点だが、皮肉なことにこれを機に多くの名画が倉敷にあることが全国に知れ渡り、それらが重なりあってブームの到来を招いたのであろう。

 ところで人が集まればそこに何等かの利益を得んとする輩が集まってくるは理の当然で、この乞食エカキを始め、アクセサリー、冷やしアメ、観光写真、人力車、後にはアイスクリーム、占い師、女引っ掛けカメラマン、ギター歌い、宗教カンパ等あらゆる有象無象が湧いてくるのだ。ちなみにその当時の新聞には「美観地区の駐車場どこも満杯、狂う計画」「美観地区に新名物の人力車」の見出しが散見できるが「人気者のニガオエ描きさん」とチャンと俺の事も出ているのだ。

2007/09/21(金) 倉敷にがおえエレジー 題47回
思うに生きる定義とは喰うことであり、味わうことであろう。

碩学サミュエル・ジョンソン先生は「腹のことを考えない奴は頭のことも考えない」と喝破し、フランス人は「その人の食物で人物を判断せよ」と人物教養の基準の一つにしている。
「君子、厨房を遠ざく」とはとんでもない話で昔から料理は男の仕事だったのだ。
たとえばホメーロスの叙事詩の英雄達は肉も切れば、パンも焼いた。ユリシリーズのオデュセウスはローストビーフの名人だった。「三国誌」の軍師・諸葛孔明は漬物や畑の種まきまで指図しながら、五大原の作戦の采配を振るっていたし、レオナルド・ダビンチでさえポッチェッリと一緒に居酒屋を経営しょうとしている。ロートレックに到っては食通を凌駕し、常にポケットにオロシ金とナツメグの実を入れて持ち歩き、ついには「美食三味」という本を上辞している。

 こんな事を羅列すると千夜あってもきりがないので割愛するが、ゴッホの描いた「馬鈴薯を食べる人々」やミレー描く「種蒔く人」に一歩でも退歩?するためにも、ここにしばらく鍬をもって土に語りかけてみよう。何、土か答えてくれるさ。いまの人間から答えは出ないと痛いほど知っている急拵えのチモ兵衛田吾作はまた勝手に決めてしまうのだ。

 テレパシーで俺の引越しを知ったというチビクロが来た。清原天皇もやって来た。ヤンに淑恵ちゃんもやって来た。カラスもやって来た。カラスの見守るなか、早々皆で開墾作業のランデブだ。心地よい疲れ合間に皆のなけなしの金を集めてのコップ酒。この喜びは富者の万燈よりも、貧者の一燈の大いなる喜びでもあった。

 富よ去れ!文明よ去れ!華麗なる肥え溜めよ!


 次回 倉敷美観地区に集う人々

2007/09/20(木) 倉敷にがおえエレジー 題46回
何度も言うようだがその頃の俺は浮遊求める所を知らぬニガオエ旅だ。まして情報過多で旅の葉脈を失って現実という幹からバラバラ剥奪、遊離していく無力感に毎日呆然とし、何か重大なものを失っているのではないか、と憔悴していた頃でもあった。故に現実に即した言葉ほど胸中深く銘刻を残すのだ。それほどこの言は一滴蒸留液でもあった。
 それに晃氏は戦時中、東京防衛隊の一等兵だったのだが、それは名のみで後楽園球場のイモ畑に毎日肥え桶を担ぐ畑仕事ばかりで、それが実に楽しく、また色々教えられたと述壊されるのである。

自然との照応のうちに人事を眺める。人事を自然の中において眺める。このように晃氏は野菜を作るのは食べるだけが目的でなく、野菜の成長に語りかけ、彼自身何かを掴んだり、ときには心の傷を癒しておられるのだ。

 ギリシャ神話にこんな話がある。ある英雄が闘って全身傷だらけになってバタッと倒れる。が大地の土に手をついた瞬間、一切の力を取り戻して、また立ち上がるのだ。「よし!、野菜畑にしょう・・・」この広い空地を見て俺も手を付く大地が痛烈に必要と感じ始めたからである。シャキシャキしたゴボウ、涙が出るタマネギ、ツンと鼻に抜けるようなダイコンを作ろうと。味の世界もまた他の芸術と同じように個人の創造力によって開発されるべきではないか。と日蓮ヒゲは勝手に思い始めるのだから良い気なもんだ。

2007/09/19(水) 倉敷にがおえエレジー 題45回
それに「老子」の書物だ。
国家に癒着し、既成秩序擁護に結果しがちな「孔子」と違い、国家も社会も否定する無為のアナキズムに本来の人間主義と真のインターナショナルリズムを回復しょうとする老子の思想が、時の軍部に危険視され、官憲に弾圧される。

それでも黒石は節を曲げることを拒み、国際的根なし草の痛みをニヒリズムの深淵まで掘り下げ、貫き通すのだから、残された一家はたまったものではない。
度重なる夜逃げはまだしも喰うものがない。
そこで道端に生えているヨメナ、ハコベ、ノビル等で腹を誤魔化すのだからカイコやコアラ、パンダと何等変わらぬ生活を送るのだ。ゆえにこういう飽食時代になっても野菜が身の回りになくては安心出来かねるのだろう。

 また晃氏はこうおっしゃるのだ「ボクは一般にその物の持ち味が好きなのよ。従って料理してすっかり持ち味を変えてしまう事は好きでない。人間にしたってそうではない。その人間の持ち味というものがたまらない妙味があるもので、性格が変わるほど装飾してしてしまっては何の面白みもない人間になってしまうのよ」と。

2007/09/18(火) 倉敷にがおえエレジー 題44回
愚察するに彼の父君・大泉黒石はロシア人との混血児で、少年時代には文豪レオ・トルストイに抱っこされたりしてロシア、フランス、中国を放浪、自称「国際的居候」と居直るのだ。

その頃の日本は戦争というウルトラ・ナショナリズム真只中であり、それに杭してニヒリズム、アナキイズム、ダダイズム等イズムの百花争鳴で黒石も大杉栄や辻潤らとともに雁行して行くのである。

この岡山においても常に赤いボヘミアン・ネクタイをヒラツかせ、繁華街を人もなげに闊歩し、また後に日本美容界の草分け的存在になる美少女アグリと結婚。田舎町岡山をアングリとさせるのだが、その男が吉行エイスケであり、ダダイズムの第一期生であったから黒石とも親交があったものと推測される。ちなみにその息子が吉行淳之介だが閉話休題だ。

そんな時代閉塞の中で黒石は「デラシネの痛み」を根幹として戯作風刺文学「俺の自叙伝」に昇華し、ときの大編集長・滝田愕陰が主宰する「中央公論」を舞台に彗星のように躍りでるのだ。「人生見物」「人間廃業」「老子」等次々発表し、いずれも爆発的人気で版を重ねるが、文壇とか画壇の陰湿さは昔も今も変わりがない。黒石自身、文壇などはバクダン、ブツダンで示すように禄な奴はおらないと指摘するものだから、村松梢風や久米正夫みたいなケチな頭蓋骨共が黒石を一種の人格破産者として文壇より追放してしまうのである。

2007/09/17(月) 倉敷にがおえエレジー 題43回

異色俳優・大泉晃氏からの教示

 仏教に因縁や宿縁という言葉がある。すれば「酒縁」という言葉があっても可笑しくないだろう。というのは俺がいままで住んだ大阪や東京のアパートの管理人は全て酒屋であり、津山での隠居所は酒の醸造元であり、倉敷でお世話になろうとするのは酒屋を営む老刀自の持ち家であるからだ。いまは引越しを霊柩車でする身だが、酒は栄えであり、濁り酒もいずれ清酒になるのではないか、と思いつつ早速、番頭に案内された所は美観地区より十分程の近さであり、何より俺を嬉しがらせたのは空地が広い事であった。

 それは何時頃か失念したが異色俳優・大泉晃氏を作家・玉川しんめい氏が紹介してくれた時のことを思いだしたからである。
 「ホオー、祭りから祭りにニガオエを描いてネ、この暑いのに・・・・真夏はボク、野菜畑にある穴の中でジッとしているの。仏教でいう雨安居ね。ゆえに近所の人はボクのことを野菜人とよぶノ。土があれば野菜ができる。野菜ができれば生きられる。それがボクの人生哲学の根本デス」とおっしゃった事だ。

2007/09/16(日) 倉敷にがおえエレジー 題42回

・・・で夜汽車の赤松燐作だ。明治11年津山生まれ、東京美術学校西洋画科卒業。黒田清輝、和田英作の白樺派、後「光風会」に属し活躍。一転大阪に赤松洋画研究所を興し、昭和20年大阪市立美術研究所の所長になるのだが、彼の弟子には有名な佐伯祐三がおり、ちなみに筆者は三十三人目の卒業生である。同期にはやはり似顔絵を描いていた行動美術の儀間政治氏、大阪芸大教授の辻司氏、小林善行氏は渡欧、パリのモンマルトルで現在数十人居る日本似顔絵師のボスになっている。
俺にも「モンマルトルに来い」と言ってくれるがインドやバニー島ならいざ知らず、いまのヨーロッパから学ぶべきものは何もない。
 今の日本が問題なのだ。とくに俺にとっては社会への回路を断たれた人達、人間であろうとすればするほど、社会から疎外されている人々への愛情だ。日本丸の行く先に目をつむり、エゴイズム先行の人間には興味はない。
 それを見極めるには乞食エカキが一番いい位置にいる。人の動きや社会の構造を常に一歩しりぞいて見ているから全部赤裸らだ。どんな事でも相対化できる位置に身をおいているから社会の実相が解かるのだ。
 騙そうととする奴、騙されまいとする奴、狐と圧屋と鉄砲の立ち回り狂言、これほど面白いものなく大いに語ろうじゃないか。これでスカンク親父も安心しただろう。俺もこれで陰居生活は頓首で霊柩車の中でホッとしている。仮象の別荘から実相の本宅へ引越し、大日法界の色は夢想三昧でナンマイだ!・・・

 次回 異色俳優・大泉晃氏からの教示

2007/09/15(土) 倉敷にがおえエレジー 題41回
自戒を込めていうと田舎で生活していくには三っつの演出が必要だという事だ。一つは、自己顕示欲の否定。二つは不器用演技。三つは弱者演技であって上記の三人にも又、俺にもなかったという訳である。結果的には彼等三人は闘うに価する相手というより、己の肥大化したルサンチマンを対象に命を徒労したといっても過言ではない。ローソクの周りを跳びまわる蛾は結局、火に魅かれて己を焼き滅ぼしてしまうように、自己幻想に取り付かれのだ。
 俺も隠居所で死人の肖像画を相手に伸吟していると、ときには全ての人間が敵と感ずるような脅迫観念に陥ることもある。人々に向かって思わず大声で呪いの言葉を吐いたり、あるいは何か異状な事でも仕出かしたくなるのだ。
 考えてみると誰しもがこの「魔の一瞬」がまったく訪れないとは言い切れなく、犯罪人と我々とは無縁の衆生ではあり得ない。ときには「罪と罰」のラスコリニコフに、「異邦人」のムルソーになり得るのだ。
人は何故犯罪をおかすのか?等、俺にはたいそれて答えられないが「裸のサル」であった人間が背負っていかねばならぬ永遠の命題だけは確かなようである。
 草に霜、月に群雲、花に嵐、人に罪、これらは皆ものの哀れのバリエーションだ。ようするにヤヌスの双面の一方が善人面なら、こちらを振り向くもう一つの顔は悪人面であることを見据えなければならないのだ。ゴキブリを愛しながらフマキラーをも尊敬するトータルな人間になるしかないのだ。それだけ生きるということは疲れるということである。アア・ァと感嘆詞をあげてる暇もないという事で読者諸氏よ回れ右したまえ。俺も周り右する・・・・

2007/09/14(金) 倉敷にがおえエレジー 題40回
高瀬舟の立石孫一郎だが、播州三日月の大庄屋の倅である。

「我に七難八苦を与えたまえ」と感泣した山中鹿之助もここの生まれで両人とも偏狭で一本気な正義感を宿していたと見える。村役人と衝突、母方の作州の富豪・立石家に身を寄せ、縁あって倉敷の大橋家に養子に来るのだが両家とも勤皇家であり、何しろ「三国志演義」で歯がみして血を滴らすような男だからジッとしておらぬ。
大阪で新撰組の近藤勇らが酒宴を開いていると耳にすると、同士数人と語らって切り込むのだ。

こんどは下津井屋が代官と結託して米を買い占めているのを知ると、やはり同士とともに襲い、清音橋「考古館横」下に下津井屋親子の首が川水に洗われるのである。

結局、長州の高杉晋作率いる奇兵隊に入隊するのだが、色白で大男、弁舌もたち、その上、立石家の祖先が毛利輝元に仕え武功が会ったせいもあろう。瞬時に分隊長に抜擢、その不平分子百数十数名で倉敷代官所に焼き討ちを駆けるのだ。この事は「愚人、事を誤る」と桂小五郎を噴激させ、暴徒として暗殺される。


 哀れついでに書くと昭和13年の「加茂の三十人殺しの都井睦夫であろう。この事件は日本中を震撼させ、俺も小さい時、婆さんより「悪いことをすると岡山の山へ連れていくぞ」とよく驚かされたものである。彼自身、村の秀才で若冠二十歳そこそこで「雄図海王丸」という作品を書き上げているのには違う一面を見る思いであった。

またこの事件の二年前、内大臣、蔵相、陸軍総監らを射殺。東京・永田町一帯を占拠。俗にいう2・26事件の青年将校・野中大尉が岡山出身であった為、県民にあたえたショックも大きかったであろうと想像する。しかし、俺は何故こんな事を書くかというと己自体も又、彼等と同じくピューリタンのロバのごとく扱われ、石持て追われる身の上だったのである。

2007/09/13(木) 倉敷にがおえエレジー 題39回
高瀬舟、夜汽車、俺は霊柩車で・・

 中国のチンプンカン、インドのオッペラボウ、オランダのスッペラボン、朝鮮のムチャリクチャリのごとく、俺のサブタイトルも滅茶苦茶だ。しかし、別に夏炉冬扇でもない。先ず高瀬舟とは倉敷代官所焼き討ちの首謀者・立石孫一郎が津山から倉敷へ出る手段として利用する。夜汽車は津山生まれの洋画家・赤松燐作が東京美術学校へ入学する折り、といいたい所だが残念ながら津山線は昭和19年中国鉄道を買収、発足した訳で無理があるようだ。ただ彼の代表作が「夜汽車」故、まんざらこじ付けでもなかろう。で俺の場合だ。
 その頃死人の肖像画を描くのは止めていたから金がない。赤城の山に籠もった忠治ではないが、山にいればいるほどジリ貧になる。目的が浮かばないからといって石地像でもあるまいし、ジッとしている訳にはいかぬ。そんな時、倉敷美観地区の老刀自が「空家かあるからいらっしゃい」と言って下さるのだ。アル中の乞食エカキに見込みを付けて下さるのだ。と、同時にジャズ喫茶「邪美館」で働いていた青年が「廃車寸前の霊柩車なら空いている」と言ってくれたのだ。彼は葬儀屋の息子だったわけだが、俺にすれば荷物は絵の道具と本しかないのだから正に三途の川の渡し舟だ。いわんや引越しを霊柩車でするのも乙なものではないか。という訳で判字ものみたいなサブタイトルにある程度納得して頂けたであろう。しかし、これでは、読者に対して不親切というものであろう。故に続ける・・・・

2007/09/12(水) 倉敷にがおえエレジー 題38回
彼にすればヒッピーや大道絵師のようなネガの部分で生きている者も、時代を煮え詰まらせていく薪の一部にならねばならなのだ。腐敗的政治、堕落形態としての宗教体質というモノの呪縛から、まず我々内部自ら解脱せぬばならぬ。それ共に人間、あるいは自然への加害者と化した現代文明の告発を縄文人的立場から行い、近代合理主義の名のもとに封じ込まれてしまった人間の内奥に潜む情念の解放を大衆レベルで展開せぬばならぬ。彼等ヒッピー運動としての展開を切り開けるか、否かはこの点にかかっていると云いたいのだろう。

 わかった。日蓮ヒゲ、しかと見届けおく。

 千鳥足の世迷いごとはこれぐらいにするがこのアーチにしろ、ヒッピームービメントの虜になった一人であり、倉敷川沿いでアクセサリーをやっているロク、ヒロ、ハニー、ガラス諸君もヒッピーのニューエイジであった。彼は後年、長野八ケ岳での「いのちの祭り」倉敷キリスト会館での反原発祭り、鳥取大山での風の祭り、阪神大震災でのボランティアのスタッフの一人になるのだが、その時ばかりは垂下したヒゲも跳ね上がり、寂しげな眼も生き生き輝くのだから不思議なものを見る思いだった。そこで「国際ヒッピー協会倉敷支部長」という大げさな名を冠したしだいである。

 天領柳に埋もれ、疎水ひあがり熱い日の事であった。

2007/09/11(火) 倉敷にがおえエレジー 題37回
その後のヒッピーはドロップ・イン「社会の内」派はとアウト「社会の外」派に分裂する。
イン派は都会の真ん中に共同体を作るべきだと、国分寺でロック喫茶「ほら貝」とインデァンプロセスという印刷会社をやり始めるのだ。「ほら貝」はニューロックやニグロスピリチュアルばかりで当時としては画期的なものであり、インデアンプロセスはアメリカのヒッピー新聞「オラクル」からヒントを得た「部族」を発行。編集は新宿のランボーといわれたナーガであり、絵はニガオエ描きのポンが担当した。

 一方、アウト派は原始社会の自由、平等、友愛がもっとも優れた形で復活しょうというモルガンの言葉をスローガンに、長野・富士見に原始部落を。また或る者は鹿児島南海上、諏訪瀬島に入植、共同生活に入り、ここが日本のヒッピーの聖地になるのである。

 以後、二十数年、紆余曲折があったとはいえイン派は東京・杉並のホビット村から自然食、有機農業の運動にヒッピーイズムの一つの到達点に達し、アウト派は諏訪瀬でのヤマハボイコット運動を巡り、奄美でポンを中心に「無我利道場」を設営、反東燃闘争に入っていくのだ。ポンの云う「自然に帰れ!、自然を守れ!、ナロードニキへ!、」だ。

2007/09/10(月) 倉敷にがおえエレジー 題36回
ところでその頃の日本は東京オリンピックが終わり、万博に向け高速道路、ビル、新幹線等の建設ラッシュで日本列島がのたうち廻っていた。その反動であろう。小田実氏がベ平連結成、反日共系学生、反戦デー新宿駅占拠。機動隊、東大安田講堂の全学共闘派を強行排徐、樺美千子氏死亡。

 とにかく何が起こっても不思議ではない時代で、それが新宿の文化的な爛熟期だったのだ。管理社会の圧力に潰され、根こそぎされていく、最後の花を咲かせていたのだ。故にどんな下手くそなニガオエ描きにも、常時三・四名以上の客が付いた者だが、その前を今までの乞食でもないフーテンでもない、一種独特のムードを漂わせた若者達を眼にする。

 これがサカキ・ナナヲ、加藤鋭、山尾三省氏を中心にする我が国でのヒッピー・ムービメントの始まりだったのである。しかし、豊潤たる花は落ちるのも早い。決定的にしたのは68年の「新宿騒乱事件」で警官は市民や学生に襲いかかり、フーテンや浮浪者を検束していった。

 これを期にニガオエ描きの大半が旅に出、ヒッピー達も新宿から出ていき、新宿から人間の匂いが完全に消えたのだ。「乞食の消えてしまった町は、もはや人間もなく、祭りもない」と劇作家・別役実氏は言ったが至言で哀れにも新呪区と為り果てるのである。

2007/09/08(土) 倉敷にがおえエレジー 題35回
 国際ヒッピー倉敷支部、アーチ君

 「サーサ、イラサイ、イケノコイ!」
ヤン君が倉敷川を背に俺の描いた絵を売り始めた。オランダは運河の町ゆえか、まさに水を得たコイのようでこれ又、俺が教えてやった売り言葉を叫んでおる。ちなみに白鳥は一声に全生涯を賭けると言う。ヤンの声もすべて絵を売るため全生涯を賭けているように見える。明るい乞食が貰いの多いのは世界共通だ。瞬時に黒山で、なかには飲みかけのコーヒを持って駆け出してきた観光客も混じっている。俺も負けじと「ニガオエは爆発だ!」と叫んでいると、大黒さんのような袋を担いだ青年が近づき立ち止まった。
 腰まで伸びた髪、首から垂らした鈴、しかし、どこか眼が寂しげなところは、もし彼に思想があるならば、それが世間に認められていない寂しさだ。第一にその鼻下のヒゲ極めて光沢がない。これはその人物に一分一厘の活気のない証拠だ。そしてそのヒゲが柳のごとく両端はるかに顎の方に垂下しているのは恐らく向上という事を忘却した精神の象徴であろう。あえて言えば亡国のヒゲだ。するとそのヒゲが・・・
 「ヒッピーの新宿タローさんでは?」と来たもんだ。たしかに俺は新宿風月堂、国分寺・ほら貝
京都・ほんやら洞、宮崎・ヤドカニ等ヒッピーの出入りするところは繁雑に立ち寄った。

9月絵日記の続き


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